その後

 昨日の「白鳩」ですが、やっぱり「おかげ話」(私はこうやって病気が治りましたとか)が多いのかなと思って目を通したのですが、なかなか工夫してあるなあという感じ。もちろんそれもありますが、エッセイあり紀行あり、レシピがあってコラムがあって、人生相談から歌評や書道教室まであるという吹き寄せの雑誌という体裁になってました。こちらの方が人目を引けるという編集の判断なのでしょう。ただ、新しくこれを読んだ人がどれだけ生長の家に関心を寄せるかという点では多少の疑問も。何せ今の副総裁の目玉エッセイが「タラバガニの高騰」というお題ですし…


 さてやっぱりここ数日で記憶に残るのは森茉莉さんの『貧乏サヴァラン』の方ですね。案外こっちのほうが今の私を元気にさせてくれるような気もしてきました。

 だいたい贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れものの着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である。…我慢してしないのではなくて、心持がゆったりしているから呑気な感じなのである。

 隣の真似をしてセドリックで旅行するよりも、家にいて沢庵でお湯づけをたべる方が贅沢である。材料をおもちゃにして変な形を造ったり、染めたりした料理屋の料理より、沢庵の湯づけの方が贅沢なのは千利休に訊くまでもない。昔の伊予紋や八百善にはそんな料理はなかった。中身の心持が贅沢で、月給の中で楽々と買った木綿の洋服(着替え用に二三枚買う)を着ているお嬢さんは貧乏臭くはなくて立派に贅沢である。
 要するに、不格好な蛍光灯の突っ立った庭に貧乏な心持で腰かけている少女より、安い新鮮な花をたくさん活けて楽しんでいる少女の方が、ほんとうの贅沢だということである。


 検査の結果、父が入院ということになりました。何ができるかわかりませんが、いきなり倒れて亡くなるよりはずっと良かったはずですので、できるだけ母に力を貸して(ほんとうにできるだけということに最初はなりそうですが)人生のこういうあたりも過ごして行きたいと今考えています。
 あと、今日は『スピリチュアリズムはなぜ…』の磯村さんとお話する機会がありました。これは日記として書きとめておきましょう。人生いろいろです。