切られ与三

 『与話情浮名横櫛』を知らなくても、また「切られ(の)与三」と聞いてピンとこなくても、春日八郎の『お富さん』の歌や歌詞の一部はどこか記憶にお持ちの方は少なくないと思います。(→Wikipedia「よわなさけうきなのよこぐし」
 超訳的にお話を紹介します。ぼっちゃん育ちのある青年が筋者のお妾さんに一目惚れ、相思相愛になったはいいのですが旦那に露見、二人は切られて海へ投げ棄てられます。ところが瀕死の二人は生きていた。青年(与三郎)は膾に切られた身体の傷を売り物に、強請りたかりの小悪党(通り名が「切られ与三」)に。お妾(お富)は別の旦那に拾われて別宅暮らし。ある時強請りに入った家で、与三郎がふと見ればそこには死んだはずの富が。あれほど契った仲なのに、もう別の男をこさえて御気楽暮らしかと、自分のことは忘れてしまったのかとお富に怒りをおぼえて迫る与三郎…

 女将さんへ。ご新造さんへ。お富さんへ。
 いやさお富、久しぶりだなあ。

 「♪死んだはずだよお富さん」というわけです。これはやや身勝手な理屈ではありますが、元の話を知っている側からすればある程度納得もできる「泣き言」。裏に未練をたっぷり残しつつ、ここで怨みの丈を述べてお富を責める与三郎に「もっと言ってやれ!」という気になる男性も少なくないはずです。(あとでこの話にはどんでん返しがあり、結果としてはここ(源氏店)での言葉が的外れであったということもわかるのですが…)


 これに対して『青砥稿花紅彩画』に出てくる弁天小僧菊之助の名は、与三郎よりもおそらく知られていると思うのですが、こちらの強請りの性質は(時代が違うゆえでしょうか)全く共感を得ないものではないかと感じます(→Wikipedia「あおとぞうしはなのにしきえ」)。
 娘に化けた弁天小僧は、南郷力丸と一緒に呉服問屋を訪れます。商品を見せてもらいつつわざと緋鹿子を懐へ入れると見せ、咎め立てした番頭にかねて用意の他の店での緋鹿子の領収書を出して「万引きの濡れ衣を着せた」と強請りにかかるのです。

 十や二十の端金で売るような命じゃねえ、百両ならば知らねえこと、一朱欠けても売りやしねえ

 これが強請りの真髄かとかつて書いたことがあります。本来は犯罪者と誤認した(それも仕組んだものでしたが)その過失を詫びればいいだけのことなのに、その過失がいつの間にか「命」の問題となっています。そしてここでは過失をした者にいつの間にか「負い目」が発生し、その負い目を償おうと金銭を出すように仕向けられているのです。一度出された金銭を突っぱね、命の話を持ち出すことによっていつの間にかその金額を高騰させる…小悪党ではなく大悪党ですね。


 「自分は傷つけられたんだと」大声をあげ「どうしてくれる」と迫る、その姿は似ているものなのですが、傍で見ていて理が感じられるものと感じられないもの、与三郎と弁菊の間には(少なくとも今の私たちにとって)見過ごし難い懸隔があるのではないかと思うのです。
 さて、「自分は傷ついた」と他人のブログあたりに抗議する行為はそれなりに見かけるものですが、周囲がそれを与三郎と見るか弁天小僧と見るか、理があるなあと思えるか否かは頭に血がのぼった当事者には判断が難しいことかもしれません。でもそういった「揉め事」を見かけたものはどちらかを判断すると思いますし、案外自分で思うより自分が悪者に見えているということがあったりするのではないでしょうか。
 大見得を切れば良いというものではないでしょうしね。