民主主義と多数決

 はてブで興味深い記事を見つけました。以前に訪れたこともある「EU労働法政策雑記帳」の民主主義とは多数の専制であるという記事です。ここでは民主主義には「多数決」が必要な要件であり、それを認めない(or認めたくない)としている方々の意見に対してそれは欺瞞的であろうとされています。
 私も同意見で、かつて似たような内容で何度か日記を書いたこともありました。そこで採り上げたのは「少数者の意見を大事にするのが民主主義だ」という良く聞く文句で、それもやはり上記記事(詳しくはリンク先をご覧ください)で言われているように

…何ごとも少数派の利益を優先するのが正しいことであるかのような過剰リベラルが瀰漫すると、話がおかしくなっていくのです。

 という感じ方をしての考察でした。
 ただし、雑記帳のHamachanさんは

「議論を尽くす」中で少数派の利益を一定程度配慮する、その上で多数決で決める、それが正当である、というところを譲ったら、もはやそれは民主主義ではないはず。

 と結語に書かれているのですが(これ自体はまっとうなご意見だと思いますが)、私は「少数者を大事にする」という発想あたりでの配慮の仕方は、その利益を考えてあげたりすることではないのではないかと考えました。その発想の大本が、トマス・ジェファソンの次の言葉にあるのではないかと思えたからです。

 All, too, will bear in mind this sacred principle, that though the will of the majority is in all cases to prevail, that will, to be rightful, must be reasonable; that the minority possess their equal rights, which equal laws must protect, and to violate which would be oppression.


 私たちは心にこの神聖な原則を抱いていなければならない。すなわち、多数派の意志が常に通されるものではあるが、その意志が正しくあるためにはそれが筋の通ったものであることが必要であり、また少数派は同等の権利を有し、その権利は同じ法によって保護されなければならず、少数派の権利が侵害されるならばそれは圧政なのである。(私訳)
 (アメリカ合衆国第三代大統領就任演説より)
 原文:First Inaugural (1801) Thomas Jefferson

 これは、合衆国市民が議論を尽くすのはcommon good(共通の・一般的な善)を目指す同じ歩みの一環であり、その過程で出てくる少数派の意見もまた憲法や法の下に平等に保護されなければならない(つまり公正な議論でなければならない)という文脈で出てくる言葉で、私は「意見の開陳や主張すること」自体への配慮、すなわち言論の自由や意志公表の機会を与えるということについての配慮ではないかと受け取りました。
 そしてこの言葉が断片的に引用されたりするうちに伝言ゲームのように「少数者の意見を大事にするのが民主主義だ」という言い方になっていったのではないかと思うのです。もちろんそれは「何ごとも少数派の利益を優先する」というあり方でもありません。


 残念ながらかつて私が記事を書いたときに、「少数者の意見を大事にするのが民主主義だ」とおっしゃる方々の反応はほとんど得られませんでしたが、ブックマーク(のホットエントリー)にも載った冒頭に挙げた記事がこれからどのような反響・反応を得るのか興味津々といったところです。


関連過去記事:
民主主義は少数意見を尊重する?」(2005/11)
民主主義における多数」(2007/04)