あまり関心がもてないコメントの話

 この頃はもう日没が早いので今日も暗くなってからの帰宅でしたが、帰ってみると次のようなコメントを知らせるメールが入っていました。今年の3月4日の記事に対してのものです。

cogito
『どうやら答られなくなったようですね(笑)
では質問を替えましょう。たかだか文学に過ぎないものがどうして「近代的自我」の形成に寄与することが可能だったのですか?文学とはそんなに大それたものなんですか?
今度はちゃんと答えてくださいね。』

 「今度は」も何もどういう文脈でこういうメールを出してくる方がいるのか不思議で、当日の記事の方を見てみましたら、全く忘れておりましたが引越しの前あたりに何か言ってこられた方で、中断していたあたりにまた別のコメントをいただいていたようでした。
 申し訳ないのですが続報のメールの方は届いていたのを存じ上げず、またこの件に関してはまったく私の頭にありませんでした。不幸にもタイミングが悪かったかなあと思いますが、気にされていたようでご心配をおかけいたしました。もしかしたらここらへんの時期にコメントをいただいてまだ返答していないものも他にあるかもしれません。ここでそういう方々に(このcogitoさんを含め)お詫びいたします。


 さて、何となく経緯を思い出して参りましたが、この方のコメントの最初は次のようなものでした。

cogito 『あまりにもバカバカしい議論なので簡単に済せます。「古代的自我」など存在しません。「近代的自我」とは単なる政治的スローガンに過ぎないのですから。こんな問題は文学では80年代までに決着済みです。ご苦労様。』

 まあ最初にこういう言い方をされる方を相手にする愚というものは重々承知しておりますし、ナチュラルにスルーしてしまっていたそのままに…とも考えたのですが、何と言ってもコメントが着ていたのを知らなかったのはこちらのミスです。放っておかれてついついこういうきつい言い方になってしまったとも考えられますので、ぼちぼちお返事を書かせていただきますね。今日はそのほんのさわりを…


 一般には難解な言葉で(というか人口に膾炙されていない感のある専門用語を使って)為されている議論も時々ブログで見かけることもあるでしょう。もしかしたら「近代的自我」といったあたりの用語もその範疇の端には入るのかもしれません(ですが、この語彙に関してはある程度容易に想像もつくほうではないかと…)。
 そうした話がなぜ為されるかと言えば、一つにはそこで語りたいと思われることが

 その言葉の背景や、問題設定のあり方まで含めた今までの営為を前提として成り立っている

 場合があるかと。つまりは何か書きたいと思っていることが「その語」についてのもろもろを含んでの関心となっていて、それを外しては話が立ち行かないということがあると思うのです。もしかしたら「その語」を使うことで一定の読んでくださる方々の関心を外れてしまったり、敬遠されてしまうかもしれないというリスクを承知で、それでもそれを使わざるを得ないという場合は確かにあろうと考えます。


 たとえば私が受け取るこの「近代的自我」という語が使われる状況と申しますと、これは「近代」というものが人間の在り方に変容を与えたのではないか、それ以前の人間の意識の持ちようとは何か異なったものがそこにあるのではないかという問題設定で、「近代」もしくは「近代以降」「現代」というものを考えようとする態度がそこに想定されるのです。
 この問題設定を私は特殊日本だけのものとは思っておりません。むしろ日本には遅れて近代がやってきているという認識の下に、幾分かは外来の輸入された問題設定かもしれないと思うぐらいです。(そうでなければ、modern egoとかego moderneといったあたりで検索がヒットするわけもありませんし…)ただし今の日本が近代社会となっているという見方をする以上、これが日本の今に無関係なものとは当然思われないわけですが。


 もちろん「自我 ego」という用語ですらフィクショナルなものです。それは発見というよりも創造された言葉なのかもしれません。ただそれが多くの人に受容されて語られるのは、その語が指し示す(あるいは内包する)意味合いが何らかの人間の問題を的確に照射できると考えた人が多かったからでしょうし、これはもうすでに心理学の分野を超えた用いられ方をしている幅の広い観念となっていると思います。
 近代的自我というものもある種そうした存在ではないかと考えます。ちなみに最近この語が使われているのを見たのは、たとえば「おおやにき」の大屋雄裕氏の『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』(ちくま新書)だったりします。大屋氏は法哲学の分野の方で、この語はそちらの方からも「近代が人間にもたらした影響とは何か」というアプローチがあるのだということを知らせてくれます。


 私はこの語をそういう関心の下に使っているのであって、そこに興味の無い方は残念ながらそこで語っていることにも興味をお示しにならないかもしれません。それでも近縁の興味関心をお持ちの方には何事か語りたいと思いますし、そこで何らかの話題の進展があったらなあと願うものでもあります。


 冒頭にコメントを挙げましたcogitoさんのように当該の記事の関心事とは全く異なるところで、しかも「その語を使ったのは戦後日本の何々という人で、それは政治的意図を持った言葉で、その語を使うのがふさわしくないのは80年代の文学でわかってしまったことだ」云々という話を持ち込まれましても、もとより私の興味が引かれようはずもないのです。
 むしろこうしたもの言いは、この夏でしたか、あるトラックバックで立ち寄った先で「経済学でわかったことだから」と妙な真理性を押し付けられた時のことを想起させてきます。経済学が人間について誰もが首肯しなければいけない真理を解明したというのでしょうか。あの時は話にならないと思ってそうそうに切り上げました。ある学問分野に詳しくなるとは、その分野の限界を見据えるということにつながるものだと私は考えます。ああこの人は経済学も適当にしか知らないんだなとその時は思いました。そういう類の人と実のある話をするのはなかなか難しいものです。
 そんなこともわからないのかバカ、と私が思われるのも仕方がないでしょう。それはそういう方々でも自由に考えればいいこと。同時にこちらは「なんだかなあ」と首を勝手に振らせていただきます。
 まあ最初にあのcogitoさんのコメントを見たとき、話は噛み合いそうにないと私がすぐ思ったのは、こういう経験が下にあったというあたりまで思い出して参りました。


 このように最初からこちらが「どこか他でご勝手に」という気でいたのが(正直それほど失礼とも思えないのですが)気に障ってしまったのかもしれません。ですがここいらへんは本音のことでして、引越などでばたばたして日記を中断しなくても、結局は関心が向かずかみ合わなかったであろうなとも思うんです。
 かなり昔の日記の記事で、しかも興味や話の筋がずれたところでちゃんとした話をしようとされても、こちらがなかなかついて行けないというところはお含みおきください。また気力が充実して参りましたら、何かお答えのような記事を書こうとは思っておりますので、cogitoさんどうか気長にお待ちください。本当はそういうのを待たれるよりも、どこかでまとめてお書きになって世に問われる方が意味があるような気がしますよ、と最後におせっかいです。(そして、日本以外での類語の用例などを考慮されることも本当にお薦めいたします)