幸せは他人様の幸せ

 「幸せ」のイメージに他の人の幸せ像が影響してしまう。そういう部分は逃れ難くあるんじゃないかと思います。幸せって何なのか、おそらく私たちは後天的にそれを学ぶところも少なからずあります。自分が幸せだと思えるならそれでいい!と言い切るだけの強さはなかなか持ち得ないもので、意識せずにいた状態で「幸せって何?」と聞かれた時には、不意を突かれれば突かれるほど「ありきたりの幸せイメージ」しか浮かばないのかもしれません。もちろんじっくり考えれば何がしか「自分の幸せ」イメージは見つかるかもしれませんが。


 そしておそらく、幸せとは「他の人が持っている何か」というように裏返しに感じてしまうことが多いものなのではないかとも思います。独り身ならば恋人、配偶者、あるいは子供のいる家庭…。お金に不自由しているならばお金持ち、得をしている(と思える)人たち、宝くじのような棚ぼたの収入、定職…。温もりに飢えているならば自分を気遣ってくれる友人、暖かい肉親、和気藹々のグループ…。
 どれもこれも「自分が持っていない何か」を自分に見せつけ、あれが欲しい、あれが幸福というものじゃないかと自分に訴えかけてくるところを持つのではないでしょうか。


 もし他の人なんてどうでもいいと言い切れるならば、たとえ悪い男に捕まって貢がされて、馬鹿にされ軽んじられながらもこれが愛だと信じて耐えている女性などに、誰も何も言えないのです。またあるいは心が動かない(=不幸を感じない)のが幸せだという言葉に対して、どう有効に反論できるでしょう。


 大屋雄裕氏は『自由とは何か』(ちくま新書)の中で、政治思想史家アイザリア・バーリンの自由論を引いていくつか考察を行なっていますが、「内なる砦への退却」という言葉で紹介する次の箇所は非常に興味深いものでした。(孫引きですが少し引用します)

 確実に手に入れることができると考えられないものを追い求めることはすまいと心に決める。達成できないものは欲しないと決心するわけである。暴君は、私の財産の破壊、投獄、追放、愛するものの死をもって私を脅かす。しかし、私がもはや財産に愛着を感ぜず、投獄されているか否かを意に介せず、自分のなかの自然的情愛を圧殺してしまっていたとすれば、その暴君も私をその意志に従わせることはできない。なぜなら、私に残されているものは、もはや経験的恐怖ないし欲望に従属するものではないのだから。
 (バーリン「二つの自由概念」、『自由論』みすず書房、所収)

 大屋氏の議論とは離れて(氏はこれを「すっぱいブドウ」の話のように自らの殻を収縮させられた人間の問題として捉えられているようですが)、私にはこの引用のあり方が非常に宗教的で禁欲的なある種の存在、聖職者たちの理想像を思い起こさせるものでした。
 本来出家するとはこのようなことをいうのではなかったでしょうか。そして、それももしかしたら一つの幸せの追求だったのかもしれないなとふと思うのです。