心の問題とリスク・マネジメント

 通勤電車での痴漢被害があった場合、誰も「満員であるのがわかっていてその電車に乗るのが悪い」みたいな話はしません。その電車に乗らなければその人の痴漢被害はなかったとしても、その人が電車に乗ったこと自体は「原因の一つ」ではないからです。それでも(たとえば加害者をいくらかでも正当化する、あるいは犯罪を相対化するために)その電車に乗った被害者の非をならそうと強弁すれば、その意見は批判されるでしょう。
 花岡記事が叩かれるのは上記構図と同様のことで、それ自体は批難されて当然のことです。そしてもしその被害者の人がたまたまその電車に乗らなかったとしても単に別の被害者が出ることになっただけだろうと推測できますから、被害者にいささかでも帰責するように「乗った方も悪い」なんていう理屈が破綻していることは明らかだと思います。


 さてそれでも痴漢犯罪の方では「痴漢はいけないという教育が徹底しないから悪い」というようには言われないように思います。一定人数以上の集団がいれば痴漢行為を働く者は(性癖にせよ、魔がさしたとかにせよ)必ず出てきてしまうもの。それは冷静にリスクとして認識して、その上で乗車率の緩和や専用車両の設置などといったシステムとしての対策を講じていく、これがリスク・マネジメントの方向なのだと考えます。(問題は、なかなかこれといった有効な対策が見出せていないというあたりにあるのですが…)


 実は米兵の暴行犯罪といったものにもこちらの見方こそが優先されるべきで、それを心の問題として「一層の綱紀粛正を」などと言う前に「具体的な対策」こそを強く要求し、言質をとって、それが有効に機能するかどうかを評価していかなければならないのだと思っています。


 ことは米兵の「教育」で問題が解決するものではありません。働き者のアリだけで集団を作っても怠け者が一定数でてきてしまうように、性善説でも性悪説でもない次元で性犯罪者は必ず出る惧れがあるという冷静な認識が必要でしょう。いきなり全か無かで「一人でも犯罪者を出してはいけない。そうでなければ出て行け」と迫るのは、感情に訴えるところはありますが少しもリスク・マネジメントにはなっていないのです。

ナショナリズム

 今回の沖縄の女子中学生に対する乱暴事件に関しての報道その他において、実際には今回問題にされなかった「日米地位協定」の話が出てくるところから、私は米兵の犯罪一般に対する見方の背景にナショナリズムとの関わりが密かに横たわっているという感を強くしました。治外法権云々という言葉すら使って、アメリカと日本の立場の不平等さを臭わせるような報道にも接しました。
 外国の軍隊が日本に駐留しているという事態がある以上、これはむしろ当然のことかもしれません。私はすべてのナショナリズムが即座に否定されるべきという立場は取りませんのでそのこと自体をすぐ問題視するものではありませんが、性犯罪被害者をできるだけ少なくしようとリスク・マネジメントを試みるということにナショナリズムを絡めるのは見当違いではないかとも感じています。被害者Aさんが被害を免れてもBさんが被害にあってしまうごとく、外国人Cを排除できても同国民Dによる犯罪は出てきてしまうでしょうし。
 確かに一つの根っこのところ、「外国の軍隊が日本に駐留している」というところを無くせば、外国の軍人による犯罪は大きく減らせるというのは単純に言えるでしょう。でもそれが角を矯めて牛を殺すことになりはしないか、それは私たちがよく考えていかなければいけないところです。
 ここさえ何とかすればすべてがうまくいくと思ってしまう「単因論」は、往々にしていろいろな副作用を招来してしまうもの。私は一足飛びに明日から理想の世界がくるかのように考えることはできませんし、むしろそういった考え方はきちんとしたリスク・マネジメントを妨げるような気がするのですが…


 そして今回のケースでは、一貫して「途中でわいせつ行為をやめた」と主張するハドナット容疑者に対する、少しでも同情的な意見は見かけません(あるいはfinalventさんの13日の記事が少しそうかなと思えたぐらいです)。米軍人という「スティグマ」があるからか、あるいは同国人の中学生被害者により強く感情移入するためか、左右を問わず彼には配慮しなくていいと思っているかのように見えます。昨日一連のニュースを追ってみたときに、そこここに記されている彼の「車内で抱きついただけだ」「押し倒し、キスしようとしただけ」「暴行はしていない」「20歳を超えていると思って声をかけた」「キスをしたり、抱きついたりしたが、乱暴はしていない」などなどの言葉が全く(私自身にも)届いていなかったことが実は妙に気になっているのです。たとえそれが言い訳に過ぎなかったとしても…