有り難し

 「ありがとう」の語源がちょっと話題になっていましたが、法華経にそれを求めるならば次の箇所に由来すると思われます。

妙法連華經安楽行品第十四(冒頭)

 爾時 文殊師利法王子菩薩摩訶薩 白佛言
 世尊 是諸菩薩 甚爲難有
 敬順佛故 發大誓願
 於後惡世 護持讀誦 説是法華經


 爾の時に文殊師利法王子菩薩摩訶薩、佛に白して言さく
 世尊、是の諸の菩薩、甚だ爲れ有り難し
 佛に敬順したてまつるが故に、大誓願を發す
 後の惡世に於いて、是の法華經を護持し讀誦し説かん

 その時に文殊師利菩薩は仏に申して言った
 「世尊、この菩薩たちは大変有り難い(=滅多にいない)者たちです
 佛を敬順し申し上げるが故に、(法華経を広める)大誓願を立てました
 後の悪世に於いて、どうしたらこの法華経を護り誦し説いていけるでしょうか」

 まあそうは言っても、ここで用いられる意味から数段階を経て現在の「ありがとう」があるわけですし、これが宗教臭い言葉であるとはさすがに言えないでしょう。感謝の意を伝える言葉となったのは、江戸期の元禄以降だと言われています。


 仏教語由来の言葉は少なからず現代に残っていまして、たとえば「差別」という言葉もそうなのです。

差別(しゃべつ) 〈シャ〉は〈差〉の呉音。古くは和音も〈シャ〉で〈しゃべつ〉が普通。ただし漢音で〈さべつ〉、また〈シャ〉の直音化で〈さべつ〉と読んだ例もある。区別、相違といった意味のほか、現象世界のすべてが区々別々であり、多様なものとして存在していることをいう。とくに、法の立場から万法が一如であるとする見方にたいして、個々の存在があくまでも独自で、それぞれに異なるすがたを持っていること。その上で差別即平等、平等即差別ともいう。ここに〈即〉というのはイコールではなく、自己(自我)否定を経た上での両者の一如をいう。(後略)
(岩波『仏教辞典』p.386)

 少々驚くべき「差別即平等、平等即差別」という語も出てきますが、これは「多様性がある上でそれぞれの存在が同列のものとしてあり、我を捨てた同じ立場において多様性がまた出てくる」というように理解することができるのではないかと考えます。この解釈ではもともと「差別」は悪い意味ではなく、多様性や個性といったものに連なる言葉だったのです。