ネット上で「理解しあう」ということ

 実生活でもネット上の書き込みでも、おそらく「理解しあう」ということが目的とされるのは一部の局面に限られることだと思います。それがクリティカルに求められるのは「理解されていない」ことが誰かの感情的な負担になった時だけというか、理解してくれない人というのが自分にとって立ち現れて来たその局面だけなんじゃないかと。
 理解「しあう」という表現を簡単に取ってしまいがちなのですが、そこには「自分が理解すること」と「自分が理解されること」の両方の側面があるわけで、問題になるのは後者、特に自分が理解されていないと負担に思える時だけなのでしょう。自分が(ちゃんと)理解していないなんてことは滅多に自分の負担になるものではないのですから。
 「理解しあう」=万全の双方向コミュニケーションが必ずしも本当に求められているものではないと見えるのは、たとえば誰かが誰かを批難しているのを目にする時に顕著です。批難する側の言い分は、自分はあんた(とあんたの裏側の動機・欲求まで)をちゃんと理解している、だからこそ許せないんだというものになっているはずです。そこでは「一方的な理解」の危険性に対する配慮はほとんど働きません。それを批難する側の仲間内での相互理解(というより感情的一致)があれば、批難される側がどう思おうが省みられてはいないと思えます。もし「理解しあう」ことが何より優先されるのであれば相手の言い分も聞こうということがでてくるはずですよね。
 よくわかった=理解に何も問題がない、という前提でお前はダメだ嫌いだとされるのには救いがありません。「盗人にも三分の理」ということわざが往々にして無効化されてしまっているのが現状ではないでしょうか。それなのにこと自分の問題として「理解されない」が出てくると、すぐに「理解しあう」ことが要求される。つまりそれは相手の理解も問題にしようという態度でして、自分ができないことを相手に要求しているのではないかという後ろめたさを(時々でも)そういうときには意識すべきでしょう。


 「議論」なんて言葉もあまりに軽くネット上では聞かれますが、これがたいてい相互の主張に黒白・正邪をつけるという文字の争いになってしまっているように見えます。語感が硬いですし。でもdiscussといったあたりはもっと緩やかに、談論風発と言いましょうかもっとぬるい上にどこか生産的なものであってほしいところ。
 そこには「自分がわかること」や「相手に知ってもらうこと」、そしてその上で「自分がかわること」(さらにはできれば「相手がかわること」)があるのが理想でしょう。むしろ理解の正否はあまり問題じゃなくて、やり取りの中での相手の意外な考え方をうけて自分も(それまで知らなかった)自分の意見がわかる(もしくは作られる)し、相手もそうじゃないのかと思えるような状態。それができてこその相互理解だと思うんです。こういうのがたまにでもあれば、リアルだろうがネットだろうが寂しくなく過ごせるはずですよね。