お金をかければ学力がつくとでも?

 学級担任の8割「経済力が学力に影響」 日教組調査

 「家庭の経済力が、子どもの学力格差や進学に影響している」と感じる学級担任は8割――日本教職員組合日教組)は10日、こんな調査結果を公表した。「影響がある」と答えた教員の比率が大きい都道府県ほど、昨年実施された全国学力調査の平均正答率が低い傾向にあったという。
(中略)
 結果によると、「家庭の経済力が学力に影響している」と感じる教員は、小学校81%、中学校84%、高校87%で、学校段階が上がるに連れて高くなった。
(中略)
 日教組は「所得格差があっても、公教育に影響が出ない条件整備が必要」と訴えている。
 (asahi.com 2008年03月11日)

 こういうのを見るとへそ曲がりなのでちょっと腹が立ちます。
 学力*1の差があったとして、そこにいろいろな要因やら影響やらが考えられるのですが、それを身も蓋も無く経済力の差に帰してしまおうとするような考え方は大嫌いです。お金をかければ単純に学力がつくとでもいうのでしょうか? それに何よりこれは「やっかみ」の正当化につながりかねません…。


 そして「所得格差があっても、公教育に影響が出ない条件整備が必要」というのはどういうことでしょう? もし皆一律のお金しか学習にかけられないという(架空の)縛りがあったとしても、何らかの基準による学力差は必ず出てきます。公教育は平等だから学力差は認められないとでもいうような、何だか少しそういうあり得ない夢想が透けて見えるような気がします。気の所為ならいいのですが。


 問題は、どれだけスタートラインを一緒にしても出てくる「差」をどう納得させるか(もしくは克服させようとするか)などの点にあると私は考えます。
 教育の場においても、あるいはその以前から「皆平等だよ、一緒なんだよ」というように子供たちは教えられます。ところが学力や資産以外のところでも(足が速いとか、絵が上手だとか、歌がうまいとか、人気があるとか…)必ず人は「差」を意識することになります。早い子は就学以前から、遅い子でも高校あたりまでのうちに。
 それに直面してふてくされてしまわないようにするのが重要な教師の役目でしょう。それで腐ってしまってはもったいなさすぎるからです。
 一つの面で劣っていても他の面で勝負するとか、あるいはそれが重要ではない差だとするとか、他の価値を見るようにするとか、個別の子に応じていろいろな手段があると思いますしその一つ二つは皆思い当たるものではないでしょうか?
 妙に「平等」だけ重く教えようとするから、その副作用として、現実にうまく対応してこなしていく能力がなかなか伸ばせないのではないかという危惧さえ実は持っています。

 条件の平等というのは、たしかに正義のための基本的要件ではあるが、にもかかわらず近代人類の最大にしてもっとも当てにならない冒険的企ての一つなのだ。諸条件が似たりよったりになればなるほど、現に人々のあいだにある差異は説明がつかなくなり、それだけにいっそう個人間および集団間の不均等は増してしまう。
 (ハンナ・アーレント全体主義の起源(第一巻)』みすず書房、1972)

 (→この引用を以前にした時の記事です)

*1:というのもずいぶん曖昧な表現ですけど