差別語を禁止するということ

 「他人を傷つけるだけで明らかに無価値な語を禁止する」のは是ではないか、という議論を目にしました。差別語などの法的禁止で差別を抑制することができるといった感じの理路だと思います。
 しかし私は「差別語狩り」の発想には大いに疑いを抱いています。まず、単に一つの表現を規制したところで「関係性」が存続する限りは他の表現が現れるだけではないかと考えるからです。
 かつて知的障碍を捉えるために「白痴」等の語が使われはじめました。これは明治に入ってからidiotの訳語として現れた言葉で、教育行政が通常の教育を行なうのに困難がある人への対策を考え対応するために用いられ始めたとされます。つまりそれ以前には知的障碍者への配慮や対応に「公」が動くことはなかったのでして、公教育の概念や方法が輸入されたと同時に、すべての者に教育をという理念に付随して「知的障碍を抱える人たちの扱い、またそれらの障碍を持つ児童の教育というものが真剣に考えられたため」この語が使われるようになったのです*1
 ところがこれは普通の教育を受けることができる者とそうでない者の区別をつくったものでもありまして、おおよそ最初期からこの語は侮蔑的ニュアンスというものを持ち始めていたと考えられます。
 そこでこうした言葉に傷つく人がいるからと言い換えられた言葉が「精神薄弱」でした。ところが今度はその語(および言い詰めた精薄という語)が差別語になってきたからと、それが「知恵遅れの人たち」と言い換えられます。そしてまたこの表現にもいやなニュアンスがあるからと、「知的障害者」という語が使われるようになりました。できるだけニュートラルに表現できればと私もこの語を使っておりましたが、またまた最近は「チショー」などという言葉が明らかに侮蔑表現として流通しているようで、まったくもってこの言い換えのイタチごっこは終わりを知らないのではないかと思えます。
 それを表現する言葉を制限すれば「現実」の方も変わると単純に考えるのは無理なのではないかと思います。むしろそれはオーウェルが『1984』で描いたnewspeakの世界のように、言葉の制限によって一般の人々の思考を操作できるという発想なのではないでしょうか?


 そういうことを考えてはきたのですが、一つ妙に気にかかるところもあります。それは、ある局面局面においては確かに心無い言葉に傷つく人がいて、それを止めさせたいと真剣に考えられるというところです。『宇治拾遺物語』にこのような一節があります。

 くらぐらになりて、さりとては、かくてあるべきならねば、帰ける道に、ひとつ橋に目くらがわたりあひたりけるを、此恵印「あな、あぶなの目くらや」と、いひたりけるを、めくら、とりもあへず「あらじ、鼻くらななり」と、いひける。
 (『宇治拾遺物語』第130話「蔵人得業猿沢池竜事」より)

 こんな昔からあの侮蔑語があってそしてそれに腹を立てる当事者がいたのだということが、中学の時にこれを読んだときからふとしたはずみで何度も頭をよぎりましたっています。
 この気持ちは私にもわかります。ただそれが「政府による規制」あるいは「メディアの自主規制」を求める方向にいくのは、おそらく考え方の筋がよくないのではないかとそれだけは思うんです。
 個人的には「他人を傷つけるだけで明らかに無価値な語を禁止する」のも「非」であると考えます。表現の自由という言い方で大上段に構えるのではなく、ただ単にそこには解決がないのではないかと予感されるからなのですが…。

*1:こうした「管理」の発想は干渉や規制でもある反面、恩恵でもあるという点は見逃せないと思います