お茶漬け

 禅宗の粥座(朝食)では二切れの沢庵が付きますが、そのうちの一切れは食後にお茶を頂いた後に椀を洗う(拭う)ために残されます。禅宗の方でなくとも、その光景を映像などでご覧になられた方は多いのではないでしょうか。椀を拭った沢庵も注がれたお茶も、皆最後には頂いてしまう本当に無駄のない作法だと思います。
 ただ小さいときはあれが自分ではできないと思い込んでいました。


 汚いとかきれいとかというのとちょっと違った感覚でしたが、食事の残滓につけられた茶を飲むというのが私にはどうにも受けいれられなくて、子供の時の奇妙な潔癖さというものでしょうか家族が同様の行為をするのが食後に耐えられないと思っていた時期がありました。
 祖父母は普通にご飯を食べた茶碗にお茶やお湯を注ぎそれを食後に飲むということをしていましたし、父母も毎度ということではないのですが同じことをしました。私には絶対にできませんでした。
 考えてみれば「茶碗」というのは茶を飲む器のはず。それがご飯茶碗であろうが茶を注いで悪かろうはずがありません。しかし私は、たとえば少量の醤油やソースのにじんだお椀、たとえば納豆の粘りが残ってしまっているようなお椀、揚げ物の滓やご飯がこびりついたようなお椀にお茶を入れて飲むということが「茶を濁らせる」という意味で不潔な行為に思えてなりませんでした。そんなお茶が飲めようか(いや飲めない)といった具合で、もしお茶を勧められても他の湯飲み等を持ち出してそれに注いでもらっていました。


 若気の至りというか妙な潔癖さだったなあと思わずにはいられません。


 今朝は納豆のお茶漬けをいただきました。
 もう信じられないですね、自分が。納豆に付いてきたたれだけでは少し味が薄いとか思って醤油を足したりしてましたから。でも本当においしかったです。


 最近もまたメディアで紹介されたようですし*1、ちょっと検索を掛けるとたくさんのブログなどで記事にもなっています。魯山人がどうこうという薀蓄話も受けているようです。
 私はそれより以前に知人に伺って食したのでしたがあまりおいしいとも思えず、納豆は納豆、お茶はお茶でいただくのが本筋…なんて考えていたのでした。
 ただ、納豆を練り、たれやからしをかけ、ねぎを刻んで載せてそこに注ぐお茶を「ほうじ茶」にしてやってみたところこれがとてもおいしいのです。もともと高いお茶など買っていなかったのが問題だったかもしれませんが、煎茶ではどうにもピンとこなかった味が(私には)みごとな調和のとれた味に変わった感じがしたのです。
 もちろん煎茶を使ったときでも納豆臭は抑えられ、少し加熱されて大豆のおいしさが出ていたと思うのですが、ほうじ茶はまた格別です(これもまたたいしたほうじ茶は使ってないのですが…)


 若いとき、幼いときの潔癖さ、奇妙な思い込みというのはいろいろあると思いますが、私はこの納豆のお茶漬けが食べられたときに、一つ大人になった感じがしたものでした。もう三十は越えていましたが、ええ。

*1:「はなまる」とか「いいとも」とかだそうです