理想論について

 考えるきっかけについては省略。わりに大ざっぱな話になりますが「理想論」というのがちょっと可哀想な状態にあるのではないかということを少々。
 私は「それは理想(論)だ。現実を見ろ」というような言葉は嫌いです。ただ単に現状を肯定するため(だけ)のものいいに思えてしまいます。理想を持ちそれを語ることは現実を変えていくために必要ですし、何も変化がなくなってしまった現実など「熱死」的現実に過ぎません。そういう現実は生きていくに値するものとは思い難いです。


 でも「理想論」の履き違えと言いますか、理想の名の下に情けない行動を取られる方々もいるように見えてしまいます。それは自分の理想に照らし合わせて現実やら他者やらを糾弾する行為です。これはちょっと違うだろうと思うのです。
 それこそ「理想」は今目の前にはない、いつか辿りつくとも限らないような先に見据えるもの。現状への不満や怒り、悲しみなどによっても紡がれるものでしょうから、それを持つ本人には現実(のある側面)は耐え難く劣ったものに見えてしまうのかもしれません。
 それでもそういった仮想の話で現実を糾弾しても、現実というものは容易に変わってくれるものではありません。ただガス抜きをしているという自覚があるならまだしも、大真面目に「理想と違うから」という理由で目の前の現実を叩く行為に脱力さえ覚えることもあります。理由にはならないでしょう、それは。


 なにより、理想というものも人により立場により異なることがあります。不倶戴天の二つ、三つの理想がそこにあることも稀とは思いません。あくまでそれは個人的(もしくは一定の集団の)理想として存在しますから、他者を自らの理想で縛ることなど最初からできないはず。
 他者を批難するのに自分の理想を持ち出すのは、全く履き違えの行為です。そういうのを「理想論」なんていうつもりもありません。それは理想の名の下の思想統制と異ならないでしょう。


 あくまで「理想論」が縛るのは自分(たち)。そしてそれを現実改善のモチベーションにしていくのも同じ理想を持つ人たちだけです。同じ理想を持とうよと呼びかけるのはまっとうな行為ですが、(自分の)理想と違うからという理由で何か(誰か)を批難するなんて下の下ということです。


 ときにメディアでもそういった論調を目にすることがあります(特にピント外れの社説など)。そういったもので間違って理想を振りかざす人たちが増えないように願いたいものです。