先住民の話

 チベットでの中国支配への抗議活動やその弾圧に対して私たちが怒りを感じるのは、チベットチベット人による統治がなされるべきであるという直観的な正義感に基づくものだと思います。たとえ神権的な統治がそれ以前にあったとしてもそれを問題と考えて改善すべきはその国民であって、傍からみてどうであれ権利も負担も責任もその国の当事者にしかないと単純に考えることからきているはずです。
 その考えからは中国が現在でも侵略者であるという結論が導かれるでしょう。非常に単純化した見方ですが。
 そしてこれを考えてみれば、かつての日本による「朝鮮併合」についても(彼らのいうような非道な統治があったとは言えないと思いますが)統治を続けるという不正義は現在では現実として避けられているので、その点に関しては良かったと言わなければならないところです。
 時代を超えて裁けるとは思いませんが、現時点でそういう不正義が為されているならば放置するのはおかしいですから。


 さて朝日新聞の記事で 「先住民族と認めて」 首都圏のアイヌの人々が署名集め というものがありました。これについては最近のチベットでの弾圧などがある所為かいろいろ考えが湧いてきます。果たしてこれはチベットの問題と同列に考えなければならないのか、とかも含めてです。

 アイヌ民族を日本の先住民族として認めるよう政府に要望するため、首都圏に暮らすアイヌの人びとでつくる「アイヌウタリ連絡会」(丸子美記子代表)のメンバー約30人が23日、手縫いの刺繍(ししゅう)を施した「アミップ」(民族衣装)を着て、東京・有楽町の街頭で署名集めをした。


 国連は昨年9月の総会で「先住民族の権利に関する宣言」を採択。だが、宣言に賛成した日本政府の動きが鈍いことから街頭活動にのり出した。


 首都圏に住むアイヌは約1万人と推定されるが、差別体験から隠して暮らす人が少なくないという。千葉県の村上恵さん(23)は「政府が認めないため、アイヌアイヌであることを堂々と語れない。先住民族でないなら私たちは何なんでしょうか」と話した。 (後略)
asahi.com 2008年03月24日)

 まず最初に思ったのは、アイヌが日本の先住民であるという事実は政府が認めるとか以前に当たり前のことであって、何を今更ということです。結局は権利闘争らしいということは次第に見えてきましたが、まずもって(特に北海道における)先住民としてのアイヌという認識は誰も疑いを挟まないものですから、この見出しが何をリードしようとしているのかとても分かり難く(もしくは奇妙に)感じられるものになっています。


 関連記事などの検索で、先住民族の権利宣言、具体的な実現策探る 札幌でシンポ などというものがありました。

 第十四回アイヌ民族シンポジウム(北海道新聞社、道ウタリ協会札幌支部、札幌市主催)が二十六日、札幌市南区の市アイヌ文化交流センター「サッポロピリカコタン」で開かれ、国連が昨年九月に採択した「先住民族の権利に関する宣言」の具体的実現に向け、アジア四カ国の先住民族の代表らが議論を交わした。


 約八十人が来場し、基調講演でアジア先住民族グループのジェニー・ラシンバン事務局長(マレーシア)が「(同宣言は)先住民族の誇りと尊厳を回復させるもの。政府に声を挙げ、権利を獲得すべきだ」と強調した。


 台湾やトルコなどからの十二人による討論会では「宣言を裁判で活用し、土地の権利が認められた国もある。検証して役立てるべきだ」「難解な宣言文を分かりやすい言葉にし、一般の人に知ってもらうことも重要だ」などの意見が出た。

 あらゆる先住民・少数民族などが「文化的独立性」などに誇りを持てるようにすること。そういう人格権としての側面しかまず思い浮かばなかったのですが、実は国連先住民族作業部会などで継続している作業、企てには「自決、土地に対する権利その他の集団的権利のような問題」が重要なものとしてあるらしく、こういう権利闘争としての側面が話を難しくもしているようす。
 過去の反省云々の話が権利回復や補償の問題と直結していないのでしたら、おそらく一部の国を除いて「各々の人格権」に配慮せざるを得ないのが近代国家の多くでしょうから、この問題はこじれずに済むのかもしれません。
 先住民が「個人として、また集団として国連憲章、世界人権宣言を始め、国際人権法に認められるあらゆる人権を享有する権利があり、その権利の行使について、いかなる差別もなく、平等である」というのは当然のこととして、そこに自決権や土地の権利(回復)の話が絡んできますと、ことはなかなか簡単には進まないと考えるのが自然でしょう。
 それにしてもアイヌを自認する人々というのがどれだけいて、さらには権利闘争まで行なおうという人の規模がどれほどのものかそれがさっぱり見えてきません。そこまで望む戦いと思っていない人が多いのではないかというのが正直な感触でした。


 確かに「自決権に基づいて、独自の政治的、法的、文化的な制度を保持する権利があり、強制的な同化政策や、文化の破壊を受けない権利を有する」としなければ、目前に自分たちの文化、アイデンティティの崩壊が迫ってきているような人々が世界にははっきり存在すると思います。チベットはそれ以前に侵略者からの解放が必要ですが、まずこの範疇に入るものと考えられるでしょう。
 ただこれがアイヌ個別の話になりますと、今彼らの文化、アイデンティティはどれほど保持されているのか、危機的状況がそこにあるのかなどについてわからないことが多すぎです。自国のことなのに…と言われるかもしれませんね。でもたとえばアイヌの言葉を日常語として話せる人は途絶えたというニュースははるか以前に耳にしましたし、二十数年前に修学旅行で行った北海道でも「混血や文化的同化によって純粋なアイヌの人はもういない」というようなことが言われたと記憶に残っています。その後知里真志保氏の話など断片的に情報は耳にする機会があったものの、現実に今そこにある問題としてアイヌアイデンティティの危機なるものがあったのでしょうか?


 そしてすごく気になるのが、先の記事をはじめ国連の「indigenous peoples」を「先住民族」と訳す人の多さです。この言葉がくると私など「民族って何なのだろう?」という話が先に頭を占めてしまうこともしばしば。話が一層見え難くなるように感じます。
 たとえば民族とは文化であり言葉だという人もいます。としたらなおさら「アイヌ民族」は存在しているのかという話になるでしょう。あるいは血統だという言い方をする人が、差別する側でも差別される側(!)でも確かにいるのですが、そういうあほらしいことを信じている人は身の回りにも見かけなくなっています。それを言ったら雑駁な混血種(もしくはハイブリッドなと言ってもいいのですが)日本人など立つ瀬がないじゃないですか。
 それこそ血筋の話だとすればエセ科学のタグで語った方がよいと思うのです。やはりそれは何より文化でありアイデンティティということかと。でもそれならば失地回復まで闘おうとする「アイヌ」を自認する人がどれだけいるのか、ほとんどいないんじゃないのかということも思ってしまいますので、結局そう訴える人が出てきて語ってくれるの待ち、と今のところは判断保留です。*1


 「自己の文化を享受する権利の享受は、土地およびその資源の活用に密接に関連した生活方法から構成される場合があることを認める」という言い方が果たして吉とでるか凶とでるか、ですね。そこまで踏み込んで多くを得ようとすることが問題の進展を阻むのなら、人格権などの部分で前進させた方がいいのではないかと思う部分もあったりします。もちろん全部をひっくるめた話は杜撰なものになりがちで、結局は一つ一つのケース、それぞれの先住民、少数民族の固有の問題として多様な話が展開しなければならない…ということだとは思います。まずはそこらへんの認識からでしょうね。

*1:多くそういった方々を目にするまでは、とてもチベットと比べられるような話ではないと考えます