聖火

 比叡山を訪れた人はほとんどが東塔にある根本中堂を一度は拝見するでしょう。あそこには開創以来千二百年間灯され続けたという「不滅の宝灯」があったはず。
 嘘か真かこの宝灯を消さぬために、油切れや芯切れに細心の配慮を要求されるところから「油断大敵」の成語ができたと、まあそういうことも言われているようです。
 この灯りが実際に千年以上も燃焼し続けたかは本当は誰にもわからぬこと。信長による叡山焼き討ち(元亀二年、1571年)のあたりはどうだったのかなあなんて思いますが、そこはそれ、他所に分けた灯があったので戻すことができたという話になっていたはずです。
 この「不滅の宝灯」にはもとより象徴的な意味しかありません。それが象徴するものの一つは、伝教大師最澄の教えを不滅のものとして受け継ぎ続ける人がそこにいるということです。灯が絶えないということよりも、叡山が天台の道場として存続し続けているということが大事なのであって、その意味ではあそこの宝灯に消火器を向ける不埒な者がでるとかでないとかよりも、お茶屋遊びにうつつを抜かす高僧がいるとかいう噂の方がよっぽど危機的なんですけどね。


 ましてオリンピックの炬火リレーに関しては「聖火」なんて表現が日本では定着していますが、特に聖なる火として崇敬を集めているという事実も聞かず、クーベルタンが復興した(とされる)オリンピック精神をどれだけ大事にできるかというところが問題になるのみではないかと思います。
 もっともらしくギリシアで採火式が行なわれるあれが新たな「聖性」を持つというなら、それはちょうどフランス革命後の「理性」の宗教、あの「最高存在の祭典」が聖性を持つというのと同じぐらいの意味でしかないでしょう。


 象徴的な意味を持つモノを象徴的に攻撃するという意味で、今回の英仏でのトーチリレー襲撃には一定の意義はあったかもしれませんが、何が目的であったのかを忘れて手段に熱中するようでは単なる本末転倒です。
 むしろ政治的感覚に優れたダライ・ラマが「オリンピックの妨害を止めるよう」訴えているのは、この件で中国の面子をつぶしたところで政治的に得られるものはないという現実的判断をしているものと思われます。
 この暴発による宣伝効果はもう十分にあったと思いますし、これ以上の混乱はあるいはチベット問題の解決の足を引っ張るようになるかもしれません。中国憎しでやっているような人が多いのでなければ、そろそろリレーの妨害行為は終息させるべき時が来ていると個人的には考えています。