パリは燃えているか

 今回のオリンピックトーチリレー騒動で、結構多くの方が『パリは燃えているか』というタイトルを思い出されていたようです。それがかつての映画のタイトルとしてなのか、NHK映像の世紀』で有名になった加古隆さんの曲の題名としてなのか、そこらへんは微妙かなと思いました。


 もし映画のほうということでしたら、おそらくその多くの方が憶えておられることでしょうが
 「パリは燃えているか?」>(燃えていない!)>反ナチ万歳
 というのが基本線ですので、
 「パリは燃えているか?」>(燃えている!)>民主主義万歳
 とはちょっと食い違うんですけどね。

 1944年8月、パリ。
 「連合軍が進攻して来たら、パリを焼き払え」 ヒトラーが叫んでいた頃、ドイツ軍下のパリでは、地下組織に潜ってレジスタンスを指揮するドゴール将軍の幕僚デルマス(アラン・ドロン)と、過激派の自由フランス軍の首領ロル大佐(ブルーノ・クリーマー)がパリ防衛についての意見を戦わせていた。

 その頃、ドイツ軍のパリ占領司令官コルティッツ将軍(ゲルト・フレーベ)は、「連合軍の進攻と同時にパリを焼き払え」という、ヒトラー総統命令を受けていたのだ。
 コルティッツ将軍は工作隊に命じ、パリのエッフェル塔ルーブル美術館をはじめ、あらゆる工場、記念碑、橋梁、地下水道などに爆薬を設置させていった。

 やがて劇的な8月25日、連合軍がパリ市内に入った。ノートルダムの鐘が響き渡り、パリ市民は狂喜して町に溢れ出した。
 その頃、投降したコルティッツ将軍の部屋の受話器から、甲高いナチス総統ヒトラーの声が叫んでいた。


            「パリは燃えているか!」


 (『パリは燃えているか』紹介

 このお話では、結果としてパリが破壊されなかったのは退却の際ヒトラーの命令を無視したパリのドイツ軍司令官フォン・コルティッツ将軍の判断にひとえによるものとなっていました。


 以前にも書きましたが、ここで興味深いのはこの第二次大戦時にパリは無防備都市宣言されていたということです。昨今話題にのぼっている無防備都市宣言は「ジュネーブ条約追加第一議定書(1979年)第59条」を法的根拠にしていますが、この時は1907年のハーグ陸戦条約が根拠であるという違いはありますが…。


 そして、その宣言がパリを救ったのかということです。1940年6月14日のパリ無血入城にはもしかしたらいささか関係はあったかもしれないとおっしゃる方もいます。でもそれはポール・レノー政権がパリで抗戦せずにトゥールに移り、さらに輿論を読んで抗戦か講和かを決めようとしていたという政治的状況の方に強く左右されたと私は考えます。結局のところ占領者が自棄になればパリの無傷が保証されるものではなかったという印象も持っています。
 さらに何より、無血陥落したパリはナチ占領下で表向き平穏を保てたのですが、たとえばそこでユダヤ人狩のようなものが行なわれたりしていましたし、そこで捕まった人などにとっては「なぜ戦ってくれなかったか」と思うものであったことは否定できないでしょう。
 第三者として見ますとパリの文化遺産が残って結果的には良かったなどと言えるのですが、当事者として「一人一人の人間<パリ」とは間違っても言えないだろうと思うのです。