惚れたが悪いか
太宰治はどうにも肌合いが合わないと言いますか、熱狂的なファンは身の回りに少なからずいたのですが私は少し引いていました。過剰な自意識というのが、むしろかつての私には切実過ぎて見ていて辛くなる感じだったのかなと今では思えています。
そんな彼の作品の中でも、『お伽草紙』だけは何度か繰り返し読んでいました。特にこの中の「カチカチ山」で狸が言う「惚れたが悪いか」という叫びにはたびたび鳥肌が立つように感じたものです。
今は青空文庫で手軽に読めますので、お暇があれば一度覗いてみると面白いでしょう。
→ 太宰治『お伽草紙』(青空文庫)
このお話は以下の四つの挿話から成っています。
瘤取り …隣のお爺さんは決して悪い人ではなかったという話です 浦島さん …毒舌な亀と理屈っぽい浦島が掛け合いをします カチカチ山 …狸が純真ならざる三十七歳の男性、兎が残酷な十六歳の美しい処女です 舌切雀 …生活に不満を持つお婆さんとお爺さんが口論します
読まないと何のことかわからないような適当な紹介ですが、何とも書き難いところがありまして敢えてこんなもので。カチカチ山だけでも一見の価値があるかと。その末尾は以下のようになっています。
古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかつてゐると言つても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。おそらくは、また、君に於いても。後略。
「惚れたが悪いか」と言って死んでいく狸の気持ちがわかる人は、多分非モテとかいうことの底にあるもっと普遍的な何かを理解できる人ではないかと思っています。表面的なことで批難しあうとかよりも、これが本当に考えるのに値するものであるかどうかの議論みたいなものが欲しいです。私はこれを諾としています。