対話に拘るより闘えという意見

 ダライ・ラマが「対話」に拘ることを批難する言葉がありました。多くのチベット人が殺され抑圧されているのにタテマエにこだわってばかりというのは生命の軽視で、宗教指導者としてはずかしくないのか…といった具合です。
 どこまで本当にそう思っているのかわからなかったのですが、もし真面目な発言だったとすればここには「勘違い」があるんじゃないかなと思えました。チベット仏教の宗教者、そして精神的指導者としてみれば、当然「はずかしくない」のですから。


 基本的に(チベット)仏教は輪廻転生の教えを教義の中核の一つとして置いています。輪廻を信じるからこそ自民族への虐殺的行為に対しては自ずと異なった捉え方をするのではないか、というのがこの言葉を目にした時の最初の感想でした。それに「転生」は教義のタテマエ?というだけではなく、ダライ・ラマ14世がダライ・ラマであることの最大の根拠なのですから…。

 チベット仏教の教えによれば、すべての生きとし生けるものは輪廻転生すると考えられている。輪廻転生とは、一時的に肉体は滅びても、魂は滅びることなく永遠に継続することである。

 ダライ・ラマ法王制度は世襲制でもなければ、選挙で選ばれるわけでもない。先代の没後、次の生まれ変わり(化身)を探す「輪廻転生制度」である。

 法王(チュウキ・ギャルポ)という呼称は、ダライ・ラマ法王がチベット仏教の最高指導者であることに由来する。また、中国人やその他の外国人の中には、活仏という言葉を使用する者もいるが、この言葉を英語に直訳すれば(Living Buddha又はGod king)という意味になり、正しい呼び方とは言えない。
 (ダライ・ラマ法王日本事務所 14世ダライ・ラマ法王発見の経緯と輪廻転生制度

 対話に拘るダライ・ラマを批判するあの言葉は、自分の理解する政治権力者像というものに対しての言葉に見えます。でもそこにはダライ・ラマ、もしくはチベット仏教に関して考えようとしたところはちょっと見られない気もします。それは単に政治家としてのダライ・ラマ14世というものを自分の考えの枠で批難し、そして周囲を煽ろうとしたものでしかないのではないかと。


 でも実際教義云々は別に、抑圧や圧制、不当な扱いに対し我慢がならないと思えた人々の感情が先日の騒乱を生んだのでしょうし、その意味では政治を司る(亡命政府の)元首としてのダライ・ラマ14世に信仰とは離れた不満を持つチベットの人がいるのは紛れもない事実だとも見えます。
 そしてダライ・ラマ14世がたびたび「辞職」を口にするのは、宗教者としての自分と政治指導者としての自分の乖離を御本人が一番気にかけているからではないかなと思えたりもするのです。
 ここで「辞めることができる」のはあくまでも亡命政府での役割です。だって彼は生まれながらにしてのダライ・ラマなのであって、それはもし死んだとしても辞めることのできないもの…ということなのですから。
 (まあもしダライ・ラマ14世が輪廻転生者「ヤンシー」だったとしても、彼が現世で生きる人間の一人でもあってみれば、どこか政教分離した立場を求めたくなる気持ちがあるのではないかとは想像されます。あくまでも勝手な想像ですが)