あ、同じ…と思ってしまう

 日本の論壇系というかそういったあたりの抱える弱点の一つは、他所でみられ考えられた「問題」を単純に自分のところに引き写してきて「問題だ」とするようなあり方ではないかと思います。
 これは「日本にファシズムはあったのか?」なんていう過去エントリーを書いたあたりでも考えたことですし、そこに関わる「宗教右派(Religious Right)」の時もそうでした。
 単に欧米の問題を引き写して持ってきたところで、その問題の(歴史その他の)背景が違うということを心に留めておかなければ、良いことを言っているようでずれているという感想は常に抱かれてしまうものではないかと感じます。


 もちろん普遍的に捉えられる問題、あるいはグローバルな問題等々が存在するとは思います。でも歴史的文脈を捨象して抽出した「問題」は、特にその「解決法」などをめぐって元の事象・問題の文脈とは自ずから異なるはずですし、そのあたりを意識しなければローカルなところでは相手にされない(問題の解決にもならない)といった具合になってしまうかもしれないのです。


 かつて日本の論壇の一部はアメリカで公民権運動、黒人解放運動が盛んな頃、それと全く同じ問題を在日朝鮮人・韓国人の処遇というところに求めたのではなかったでしょうか?
 それはある程度同列に論じられる部分も持ちますが、結局のところ背景の違いから処方も異なる問題であったと今になってみると思わざるを得ません。
 あくまで「具体的な問題」はローカルで歴史的な文脈にあります。それを離れて問題が語られる、もしくはもっと悪い意味で「右のものを左に移す」だけで問題が指摘される、そういうことがあるうちは決してその言説に確かな信がおかれることはないのでは? もちろん「論壇」と一括りに話すのも乱暴な話ではありますが。


 とにかくそういう気配を感じたときは「そうかな?」とつぶやいてみるぐらいしかできませんが、それは心に留めておこうと思っています。

追記

 在日朝鮮人・韓国人のケースで、この「問題の引き写し」があったのではないかと考えるようになった一つの要因は、彼らが(その多数が)強制的に連れて来られたのではないかと思い込んでいた人の多さというものでした。
 この問題がもし個々の在日の声といったものを基礎付けにして始まっていたならば、こういう誤解は起こり得なかったと思ったのです。
 本人たちの声よりも何が優先されたのか? それはおそらく輸入された問題意識といったものではなかったか、そう考えたのでした。この誤解が疑われ錯誤に気付かれるようになるまで何年かかったでしょう?


 日本において、天皇制その他ナショナリズムの在り方に問題意識を持たれた方がいらっしゃったこと自体は不思議ではありません。でもその問題をファシズムアウシュビッツだという観点から語る言葉しか持たなかったならば、そこには思考の怠慢があったということではないのでしょうか? つまりとても土着的な部分を捨象して、輸入した観念に頼る傾向がなかったかということなのです。