誤った愛国教育

 前の記事で「誤った愛国教育」という表現を使いましたが、どういうものが誤っていてどういうものがそうではないのかというのは常に問われることだと思っています。正しい愛国教育などない、というお考えの方もいらっしゃるでしょう。
 私はクニを愛するとはというエントリの中で

 …クニを「自分を作ってきたもの」と認識することでしょう。そしてそれが今の自分を形成する(必須の)部分の一つであるというように認識すること、それがクニを愛するということだと思います。


 つまりそれが「自分の一部であり」、さらにはある意味「自分である」と認識することがポイントなのです。

 と書いたことがあります。*1
 この線で言えば、(国家という)クニを愛することを教育するという意味での「愛国教育」は、取りも直さず自我の問題と関わってくるだろうというのが素直な読み。そして誤っている(と私が考える)「愛国教育」とは、自我の歯止めの効かない(部分的な)肥大化を招く教育というものですね。


 今の中国の話で言えば「大中華思想」とか「大国幻想」とかいったものが発達してきて、それに乗った形で自我の一部を形成している人には「分裂」だとか「離脱」とかいったことを考えるのが(たとえ仮定でも)苦痛になってしまっている点があると思うんです。(→中国病参照)
 (安定しない肥大した自我は自身が崩壊してしまうんじゃないかという影に怯え、その過度の全能感・優越感を毀損するいかなるものも許せなくなる…というストーリーです)


 それではどうすればここに歯止めがかかるのかなんですが、一つには自分のナショナルと対称のナショナルがあることを知るという方向があると思います。最初から他人さまの「愛国」の姿込みで自分の「愛国」の身の丈を作っていくという感じでしょうか。これがインターナショナリズムという意味での国際主義につながるんじゃないかと思っています。
 また「国家」以外のものも自分を育ててきたものだということをちゃんと意識させることも大事でしょう。いきなり個と国家がつながっているなんていう(うそ臭い)物語じゃなく、幾重にも中間のクニが自分を取り巻き、それが自分を作っている。そしてまた国家を超えたクニ(もしくはクニグニ)のおかげで生きているというところもある…そういう認識ですね。さまざまなスケールのクニがあって、それが自分と切り離せない形でつながっているんだということ。ここらへんをきちんと考えさせることも単純な肥大化を避ける手段ではないかと思います。


 ナショナルなものを否定してしまうというのは非常に難しいことです。上記「自我」というのも広義のフィクションの類ではあるかもしれません。ただしそれは近代以降の人間には抜けることのできないフィクションで、その意味ではリアルと考えるしかないものなのだと私は考えていますが、自分と自我のその在り方と相似のことが自分とナショナルなものの間にあるような気がしています。
 確かに自我肥大の悪影響を避けるためには、ナショナルなものの否定という方向もあるとは思います。あるいは同一視する「国」を相対化するとか、卑小化・矮小化してしまうとか…。
 それはコスモポリタニズムという意味での国際主義を目指す方向かもしれないのですが、私はその理想が現実化されるにはまだまだ問題が山積していると感じます。人がもう容易には自我というものを捨てられないように、単に国家とかそういったものを抜け出てしまうということは多くの人にとっては難しいのだと、理想的な代替物でもない限りほとんど無理なんじゃないかと思えるのです。(さらに言えば、自我をむやみに否定してかかれば、一見うまく抑えたようにみえてその反動というのも必ず出てくるものだと…)
 そしてもし運良く「国家」という枠を外すか緩めることができたとしても、かつてのユーゴスラビアのように民族やら信仰やらの別の「クニ」が現れてきてしまうということもなかなか避けられないのではないでしょうか。


 と書き連ねてきました。粗い考えかもしれませんが大体こんなことを思っていて「誤った愛国教育」という表現を使ったということなのでした。

*1:ここで「クニ」とカタカナ書きしたのは、これが何も国家にのみ限定されることはないと考えているからです