続続・なぜいつまでも水伝?

 夕べの11時30分からのNHK「スポーツアンドニュース」によれば、日本国内の某プロ野球投手は「球に魂を込めて」投げているとのことでした。ことほど左様に、念ずれば通ず的な表現は社会の至るところに溢れています。


 こうした類の言葉と水伝との違いは受け取る側にとってはあまり明確なものには思えません。どこが違うかというと、まず第一に「科学を権威付けにして(かつ)非科学的なことを言っている」点が挙げられると思います。これは確かに問題なところで、その子供騙しのやり口に気付かれた方は文句の一つも言いたくなることでしょう。
 でも単に科学的意匠を纏った非科学的な言説の流行というものでしたら、おそらくその最大のものは血液型による性格判断といったあたりではないかと思いますが、これまた類例を見ないわけでもないのです。血液型云々に対してもの言いを続けておられる方々も確かにいらっしゃいますが、多くの方はやれやれだけど実害も大して無さそうだから放っておこうという態度でご覧になっているのでは?(ちなみにこの問題については→過去記事:血液型が気質に影響するとは
 ブクマコメントで水伝は50万部売れていると書かれていらっしゃる方もいましたが、血液型(占い)関連書籍の出版点数はそれどころではないわけで、危機感を感じるならばむしろこちらの方でしょう。またkurokuragawaさんもご指摘の「オーラの泉」の影響力はそれこそ水伝のメディア露出度の比ではなかったでしょうし、影響が危ないと言えばオーラ云々の方が一層ヤバイものであったと思います。


 それでもなお何故水伝が繰り返し批判されるか、血液型に関する迷妄やオーラの泉のインチキさに比べてそう思えるのかというところでは、教育関係に信奉者が食い込んでいるというところに危惧を抱かれている方も確かに多いかもしれません。容易に迷信の再生産が為されてしまうといったところを問題視する、それはもちろん危うい部分を含むことでしょう。
 ただ、それこそ宗教的教育を標榜する宗教団体による小・中・高・大の私立学校は世に溢れているとも見えるのですが、それで信心深い人間が有意に増えているとはちっとも見えないのが実状でして、TOSSとかいうところの教育関係者の皆さんがいくら笛を吹いても素直にマインドコントロールされる子供がどんどん増えるということにはならないんじゃないかとも思えます。


 単純に放っておけば良いと申しているのでもないのですが、殊更に水伝が問題視される理由が私にはあまり明確に見えてこないのです。それが書籍販売ということ以上の商売をしないならば、むしろ血液型なりオーラの泉なり宗教関係の学校法人なりの方が影響は遙に大きそうなのに何故、というあたりですね。


 似非科学のインチキさはどんどん暴露されていけばいいとは思います。私の書棚にも社会思想社の『奇妙な論理 だまされやすさの研究1・2』やハヤカワ文庫の『なぜ人はニセ科学を信じるのか1』なんていうのが入っています。こうした書籍もばんばん売れていけばいいと思いますし、それのみならず『フロイト先生のウソ』(文春文庫)や『「社会調査」のウソ』(文春新書)なんていうあたりも面白いですしもっと読まれるべきです。(後二者についてはこの日記でネタにしておりますし)
 基本は対抗言論で、というところですよね。


 要はそういうのを信ずる人の人格を否定するようなからかい方をせず、きちんと話してみるということに尽きるのではないでしょうか。アンチ疑似科学とアンチアンチ疑似科学のやり取りの中でそうおっしゃっていた方がいらっしゃったと憶えておりますが、非常に納得させられたものです。
 そういう対応をきちんとして、なおかつ相手が信念を曲げないなら、それはもう一般の合理的な理路ではないところにその相手の動機がある(もしくは何らかの宗教的なるものへの渇望を抱えている)ということではないかと思いますので、それはどうしようもないと一旦諦めるのが穏当なところではないでしょうか。
 そして普通に考えれば、「一気に燃え上がったものはまた一気に燃え尽きていく」(by宗方仁)のですから、水伝騒ぎも早晩終息するというように私には思えるのでした。