中国支配下のラサでの生活の記憶

 Memories of life in Lhasa under Chinese rule
 Tubten Khétsun
 Translated and with an introduction by Matthew Akester
 Columbia University Press / New York

 御家人さん@日々是チナヲチの記事のコメント欄で、歩厘氏が一冊の本を紹介されていました。それがこの「Memories of life in Lhasa under Chinese rule(中国支配下のラサでの生活の記憶)」です。Amazonですぐに注文し昨日届いたのですが、まず真っ先に歩厘氏が語られていた言葉*1の中で最も気になったところを探してみました。
 それは223ページにありました。

 ラサの若者たちが処刑されたのはその[1970年10月]ほぼ一年後だった。私はコンポ*2で働かされていたので直接の目撃はしていない。だがそれを目撃したラサの大多数の人たちにとっては、とても酷く忘れられない事件だった。彼らはニェモ*3の人々がかつてされたよりもより残虐に死に追いやられた。処刑会場に連れ出される前に、彼らの両手はあまりにきつく縛られていたため両肩は脱臼していた。両目の眼球は飛び出さんばかりで、顔面は異様なぐらい腫れ上がっていた。彼らの舌は裂け、口や眼窩や鼻腔からは血が滴っていた。処刑場にたどり着く以前に受け続けた拷問の所為ですでに息をしていない人もいたそうである。これはまったく人には聴くに耐えぬものであり、見た者にとっては語るに耐えないものであったそうだ。それでもなお、彼らの両親、兄弟たち、そして祖父母たちは刑場に来て処刑を見ることを強いられた。処刑が終った後にはすべての市民たちのために集会が開かれ、特に(処刑された)若者たちの縁者、愛する子供たちが拷問され処刑されるのを見続けさせられたその人たちは、当局に対して処刑してもらったことを感謝しなければならなかったのだ。彼らが言わされた公式の言葉には「これら今日の反革命分子たちは共産党、国家、そして人民に背くという憎むべき罪を犯した。彼らが処刑されなければ大衆の怒りは満足しないであろうし、私たちは大衆の要求に従って彼らを処刑したのである」という部分があり、このように彼ら処刑者たちの残酷な犯罪への不満は、弁明の機会が与えられない普通の人々に転嫁されたのであった。
(p.223、試訳)

 これは1941年に生まれ、一家全員が「階級の敵」とされながら1960年代から70年代にかけてのラサの強制収容所時代を生きたチベット人Tubten Khétsun氏によって書かれた自伝です。氏は80年代にアメリカに渡ることができて、現在でもアメリカに住んでおられます。


 1959年3月のラサ民衆決起とそれに続くダライ・ラマ14世の亡命、人民解放軍による決起の鎮圧を経て、周恩来首相によるチベット政府の解散宣言があり、チベット中華人民共和国の一部とされます。そして1959年からは「民主改革運動」と称するチベット文化否定・破壊運動が開始されたのです。なお悪いことに、1958年から始められた大躍進政策が大失敗し、権力の座を明け渡した毛沢東復権するために始められた文化大革命の波がチベットを直撃したのでした。
 毛沢東を盲信する主に十代の若者によって組織された紅衛兵たちは、権力者・官僚・資産家・インテリたちを次々に吊るし上げたのですが、同時に宗教の否定も金科玉条として掲げ、それが信仰の厚いチベットの人たちに向けられた刃となったのです。


 当時の日本の新聞はこの事態を次のように報道しています。
 「チベットにも拡大 「四旧」一掃運動」

「【ANS=東京】北京二十六日発新華社電は、北京と中国各都市で行われている紅衛兵の「四旧」(古い思想、文化、風俗、習慣)一掃運動が、広範な労働者、農民大衆、革命幹部、革命的知識人の支持と協力の下に、江蘇省吉林省河南省青海省チベットなどの各都市で引続き進められていることを伝え、次のように述べた。(中略)
 一、チベットラサ市でもこの数日、わき立っている。チベット師範学校とラサ中学校の数百人の紅衛兵と革命的な教師、学生は、毛主席の巨大な肖像をかつぎ、旧世界に宣戦した宣言書をもち、ドラや太鼓をたたいて街頭をねり歩いた。」
 (朝日新聞昭和41年8月28日朝刊3面)


 Googleの書籍プレビューではResistance and Reform in Tibet(Robert Barnett, Laurence Boulle, Robert A. Schrire, Shirin Akiner著)という書籍を見ることができますが*4、その一節では、この紅衛兵の侵攻を次のように書いています。

 漢人紅衛兵が北京と上海からチベットに到着したのは1966年のことである。チベット人紅衛兵もまた同年に西安民族学院(Institute of Minority Nationalities)から送られてきた。紅衛兵たちは1966年8月26日のラサにある大昭(ジョカン)寺(Jokhang temple)での破壊行為から、チベットの文化と宗教を破壊することを先導し始めた。それまでのチベットでの中国の組織は「党の官僚支配をぐらつかせる」ために、彼ら自身の紅衛兵的機能を立ち上げることで紅衛兵の試みに対抗した、チベットでNyamdrelとして知られるものがそれであり、それは漢人といくらかのチベット人の協力者によって構成されていた。もう一つ出現した派閥で、Gyenlokという名で呼ばれるものは、より好戦的で、紅衛兵の中の過激分子といくらかのチベット人学生で構成されていた。Nyamdrel派が中国の行政を代表していたため、次第にNyamdrel派が中国人優位ででGyenlok派がチベット人優位というようにそれらは徐々に二極化していった。
(p.68、試訳)

 何とも言いようが無い悲惨な出来事があったんだなとの思いを新たにしています。

*1:書籍の梗概など、こちらの歩厘氏の書かれたコメントもご参照ください

*2:Kongpo 中国名: Nyingtri 林芝

*3:Nyémo チベット南部中央の郡

*4:Khétsun氏の本に出てきたGyenlokという言葉がわからず、それを検索する過程でたまたま見つけたものですが