「波動」とか

 例の水伝の話にも出てくる「波動」とかいうものですが、結局は「ニューサイエンス」と言われるあたりに出自があるようです。でもそのニューサイエンスにしても複雑な出自を持っているようで、これはこういうものと了解してしまうというのは難しいところもあるように思えます。

ニューサイエンス
 一九六〇年代初めの、アメリカ西海岸を中心にして、いわゆるカウンターカルチャー(反抗文化)運動が起こった。ヒッピーや幻覚芸術、ヴェトナム反戦運動や東洋への傾斜に代表されるこの運動は、既成体制の袋小路を感じとった人々が、ともかくもそこから脱出しようとするどちらかと言えば否定的で非理論的なものであった。この運動自体は、いったん姿を消したが、その運動のモティーフは七〇年代になってより積極的かつ理論的な形で復活する。つまり七〇年代を期に、
 1 西欧近代の世界観や科学(とその方法)を理論的に批判する一方
 2 かつて無批判に憧れた東洋の文化・思想を冷静に評価し
 3 究極的には新たな文化と人間観を創造しようとする
 さまざまな試みが一斉に浮上し、それは現代まで続いている。思想、科学、技術、生活など多領域にわたる人間観の改革運動を総称して、和製英語で「ニューサイエンス」と呼ぶ。
 (『現代思想辞典』)

 この定義はかなり対象に理解を持とうとするポジティブなものだと思われます。ただ上記定義にもあるような西欧近代の世界観や科学(とその方法)を理論的に批判するという部分で、勘違いや誤解、さらには似非科学的な言辞が横行している部分があるというのも(管見でも)確かにあるところで、そういったところから詐欺、もしくは宗教、あるいは詐欺的宗教といったあたりまでの批難を受けることがあるのでしょう。


 ここでそのニューサイエンスそのものではないのですが、それに強い関連のある代替医療についての書籍から少し引いて考えてみます。取り上げる本は、新宿書房のロバート・C・フラー『オルタナティブメディスン』(池上良正・池上冨美子訳)です。

 大多数の現代アメリカ人にとっては、宗教と医療に共通するものなど、ほとんどないように見えるだろう。宗教は、物質的なものを超越した実在への信仰を説く。医学は、自然の病気やケガによって生じた組織の損傷を修復しようという、体系的な努力のことである。各種のメディアがこの二つを関係づけるような試みについての報道をするたびに、ほとんどの人は、懐疑と冷笑、ときには義憤をもって反応する。教育を受けたアメリカ国民の大多数は、子供が輸血を受けることを拒否するエホバの証人や、免疫法に傾倒しているクリスチャン・サイエンスの信者、あるいは、科学にもとづいた医学よりも盲目的な信仰を好むカリスマ的治療師に、ほとんど共感を示すことはなかった。
(フラー『オルタナティブメディスン』p.15 下線は引用者)

 まさにこの下線であるような反応が、似非科学問題について批判的なブロガーの方々にも共通するところと思われます。いい加減なことを言うものではない、という感じですね。

 しかしながら、治療を宗教から分離しようという今日の文化的傾向が、それらを統一しようとした古き時代の努力と同様に、まさに歴史的に条件づけられたものであることを心にとどめておかなければならない。治療とは、底の浅い文化的活動である。病気に名前をつけること、処方を指示することは、治療者が肉体的存在の構造や特性に関する特定の諸前提に縛られていることを表している。

 デカルト啓蒙主義の時代以降、医療の正統は病因論のなかで、器官あるいは「物質的な」要素の因果的な役割に関わることに限定されてきた。西洋医学はこのように、啓蒙主義以前の世界観とは概念的にも歴史的にも対峙しており、後者においては、病気の非物質的あるいは霊的な原因(たとえば罪や憑霊)や、それらに対応した治療法の図式(たとえば告解や悪魔祓いなど)といった文化的に強制力のある説明を、教会が用意したのであった。医学の相つぐ成功は、その基底となる観念や世界観がすぐれたものであることを、くり返し立証するという効果をもっていた。その結果、健康や病気についての宗教的な説明は、迷信の領域に追いやられた。

 だからこそ、ある種の医療体系が、科学的正統に挑戦するような理論を二十世紀後半まで信奉しつづけているという事実は、文化史家にとって特別の興味をそそるものである。たとえば、包括的な治療法、手当て療法、東洋的な自己浄化の体系などに大衆が魅力を感じているということは、かなり多くのアメリカ人が、科学にも、今日の主流派教会の洗練された神学にも属さない信仰に賛同していることを示しているようにみえる。医学の基底をなす「一元的な唯物主義」とも呼べるものを否定することにより、非正統的医療の療法師たちは「公式の」文化的定義では不合理で迷信的と考えられている観点の擁護者となる。
(同書 pp.15-17 下線は引用者)

 このようにして一見「科学 対 非正統的宗教」、「合理 対 非合理」の対立図式がそこに現れているようにも見えるのですが、

…厳密にいえば、いかなる医療体系であっても、その処方が病気の本性に関する根本的仮説や前提から論理的に導かれる限り合理的なのである。たとえば病気の原因、さらには治療を記述するうえで、「合理的に」使用できる少なくとも四つの異なったタイプの説明が認められるだろう。すなわち、生理学的説明、環境的説明、態度面もしくは心理学からの説明、霊的あるいは超自然的な説明(すなわち、肉体でも心理でもないと考えられる実体や力の活動に原因を求める説明)である。とすれば、治療のための「超自然―原因」説を提唱している人びとが、必ずしも医学に携わっている人に比べて合理性に欠けるというわけではない。ただ、彼らは現代科学の理論では認められていない因果の力の存在についての形而上学的な主張を提起しているのだ。

 非正統的な医療体系が存続し、人気を博しているのは、少なくともそれらが宗教的な意味をもった世界観を明示しているからである。
(同書 pp.17-18 下線は引用者)

 著者のフラー(Robert C.Fuller)はイリノイ・ブラッドリ大学の哲学・宗教学の教授でした。もちろん彼は代替医療ホリスティック医療を推進しようという側にはいません。彼が本書で見極めようとするのは、代替医療の側の人たちが持つ宗教性・世界観であり、その「合理性」とはいかなるものかです。
 かなり久しぶりに引っ張り出した本なのですが(訳本の初版発行は1992年)、面白さは失われていないと思いました。こうしたものを巡る状況が依然として変わらず存在しているということなのでしょう。


 たとえばフラーが挙げる「非正統的な医療体系」の中には、アルコール中毒者自主治療協会(Alcoholics Anonymous)も含まれています。アルコホリックアノニマスは最近ではかなり日本にも浸透してきた治療運動かと思いますが、これを非科学的だと排する医療関係者がいるでしょうか。それは一定の実効を持ったものとして受け容れられてきたと思われます。(もちろんアメリカの形式そのままのものが日本で行なわれているかどうかについては存じ上げませんが…)

 破綻した人生の立て直し、人間的幸福の秘訣を発見することを手助けする団体というものは、おのずから宗教と似たところをもっている。アルコール中毒者自主治療協会の例では、この変身の体験は、ある超自然的な原因によるものと明言されている。このグループの標準的な手引書が報告しているところでは、一般に「会員たちは立ち直るために、直接的で圧倒的な『神―意識』を獲得しなければならず、そうすれば、ただちに感情やものの見方にも大きな変化が生ずる」ことを発見すると言う。この「神―意識」の治療効力にたいする信仰を表現する言葉は、AAをアメリカの教会的伝統から引き離し、ウィリアム・ジェームズによってアメリカの文化思想のなかに解き放たれた形而上学的な流れに結びつけるものである。
 アーネスト・カーツは、『神にあらず』と題されたアルコール中毒者自主治療協会の歴史書のなかで、AAは二十世紀のアメリカ的霊性の典型を示していると、説得的に論じている。

 アルコール中毒者自主治療協会は、その実質と形式の双方を、アメリカの清教徒に起源をもつ福音主義的敬虔から借りている。救済がそうであるように、飲酒癖をなくすには、われわれはみずからの人生を支配することはできない、ということを個人的に認めるところから始めなければならない。一切は受け入れるべきものであって、意のままになせるものではない。いかなる種類の改善であれ、それを進めるには、われわれは神ではなく、力においても重要性においても、むしろ限定されたものであることを認めたうえでなければならない。このように神ではないものとして自分の限界を認めることこそが、われわれと「完全なる他者」との結びつきを可能にするという。

 初期のAAの考え方に大きな影響を与えたのは、心理学者のカール・グスタフユングである。

 AAが、再生へのプロセスを可能にするためには、まず自己の屈服や挫折が必要であるという宗教的な洞察を借りたのも、ユングからであった。

 しかしながら、ビル・Wの創発霊性の背後にあって、真の霊感を与えたのは、ウィリアム・ジェームズであった。AAがすぐれてアメリカ的であると同時にすぐれて近代的な宗教性の様式を受け継いだのは、ジェームズからであった。
(同書 pp.184-188 ※ビル・WはAA運動の中心的創始者

 このように、代替医療を求める人の話は決して遠いところの話というだけでもなく、またそれがすべて詐欺だとか何とかいうものではないということは確かだと思われます。
 ただこれらのものはアメリカで「ニューエイジ」と呼ばれているムーブメントにどこかでつながるものと思われますが、そのニューエイジ自体に「金集め」や「人集め」に堕しているカルト的なものも多いと言われるのは事実で、その意味では怪しまれるのも致し方ないところかもしれません。すべてをちゃんと見極めることなどできませんから。


 さて、ニューサイエンスは先の定義にもあったように和製英語です。それは新しい時代「ニューエイジ」への変容を期待する人々(ニューエイジャー)の(理論的)拠り所となったような、近代科学批判とかパラダイムシフトを標榜する理論群であるように思われます。
 ここで良く出てくる名称は、トーマス・クーンの『科学革命』とかマリリン・ファーガソンの『アクエリアン革命』、そしてそれに連なるトランスパーソナル心理学やサイコセラピーの分野があり、さらにフリッチョフ・カプラの『タオ自然学』、ケネス・ウィルバーの『空像としての世界』などの名前が聞かれます。(ただし私が実際に読んだものではありませんので批評は控えます)
 言われていますのは、これらが機械論的世界観と要素還元主義への批判を含んだものであり、そうした西欧的知の様式への批判的立場から東洋的な知の様式(主客未分とかいったあたり)への憧憬的(少々過剰な)評価を持ったものであるということです。


 そして「波動」なのですが、やはり物理学の知見絡みで、物心双方を統一的に語ることのできる(二元論的ではない)統一理論を叙述する核になっているようです。それこそ量子力学云々は私にはよくわかる分野ではないのですが、それを言ったらこのニューサイエンスの波動も似たようなもので、たとえば先述の『タオ自然学』のカプラは「量子力学の物質観が、東洋の宗教や哲学と相似していることを指摘し、特に仏教の中間派による空の哲学と華厳の世界観に結びつけた」そうで、おそらくこうした議論の細部を皆理解する(そして批判できる)人もいないまま、その結論的部分だけが都合よく利用されているんじゃないかなという感じを今のところ受けています。

 包括的で超自然的な治療を好む文化的傾向はまた、百花繚乱のニュー・エイジの宗教運動にたいしても、適合的であることを示してきた。「ニュー・エイジの宗教」というのは、一世紀前にメスメリストや、スウェーデンボルグ主義者、それに心霊主義者たちによって解き放たれた形而上学的な潮流の、新たなる再浮上を表すのに便利な言葉である。それは「ユニティ派」「神の科学」「エカンカー」のような組織化された運動から、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』にたいする一般的な関心にいたるまで、あらゆるものを含んでいる。

 これらのオカルト的な超自然主義の本質的な部分をなしているのは、宗教体験から得られる現実的な利益にたいするアメリカ人に典型的な確信である。ニュー・エイジ的信仰は、積極的な思考法が力をもつという「新思想」のレトリックにどっぷりと浸されるなかで、われわれの無意識的な精神を通して利用できる霊的な力には、治療的で自己実現をなしとげる性質があると公言するにいたっている。
(前掲書 pp.201-202 下線は引用者)

 現世利益ということでしたら、理屈というよりもその利益がないことがわかれば離れる人も多いかもしれません。またここに出てくる「新思想」(ニューソート)について言えば、いわゆる現在のポジティブ・シンキングへと連なる歴史がありますので、それは決して私たちと無関係なものと切って捨てることもできないはず。はてブで時々盛り上がるライフ・ハック的なもの言いの中に、それははっきりあるのですし。

 包括治療(※ホリスティック・メディスン)や心霊治療に対する現代の関心は、十九世紀の形而上学的運動の歴史的遺産のほかにも、いくつかの源流をたどることができる。歴史家のウィリアム・マクローリンがアメリカ人の文化生活における「四大覚醒」と呼んでいるものの役割もまた、認識されねばならない。マクローリンが注意を喚起しているのは、一九六〇年代の社会的、政治的事件、さらには環境問題に関する出来事さえもが、何百万人ものアメリカ人を動かして、自分たちの世界を理解するための、さらに適切で、さらに機能的に有用な道の探索に向わせたことである。規範と体験、古い信仰と新たな現実、消えゆく個人的行動様式と新式の行動様式とのあいだには、ぎくしゃくした分裂が現れていた。こうした文化的な葛藤の最も初期の兆しは、一九五〇年代後期のいわゆるビート族の出現に見ることができる。アレン・ギンズバーグ、アラン・ワット、ゲーリー・スナイダージャック・ケルアックのような作家は、アメリカ人が科学と宗教の権威に疎外感を抱いていることに注目した。彼らの対抗文化(カウンター・カルチャー)への肩入れは、聖書的宗教の偏狭さや科学的実証主義の精神的破産状態にたいする広範な不満と呼応していた。一九六〇年代後半から七〇年代に、アメリカ人たちが東洋哲学、サイケデリックな幻覚剤、多彩なトランスパーソナル心理学を次々と真剣に試すようになるが、それらはいずれも、エマソンがかつて「宇宙との本源的な関係性」と表現したものを見つけだそうという試みであった。そして自然のもつ高次の守備範囲との調和を求めようとする彼らの探索には、ときとしてナルシシズムや快楽主義におちいる傾向が見られたが、一方ではそれにもまして、全体性や超越的な他者との融和を求める精神的飢渇が示されていたのである。
(同書 pp.214-215 下線及び※は引用者)

 こういったところが、やっぱり似非科学と言われてもそうしたものに向っていく人が多いことへの考察の手がかりになるような気がします。
 それは決して現代日本に限られるものではないという捉え方に私は今のところ傾いているのですが…。