付け足し

 昨日の記事を書いたあたりから考えて某所でもちょっとコメントしたことなのですが、擬似科学似非科学方面の話に引っかかっている人、そうした話の再生産をしてしまっている方々にとって、案外その話自体は「ツール」みたいなものとしてしか捉えられていないんじゃないかなとちょっと思いました。
 つまり水伝あたりで言えば、「最近の言葉遣いの乱れは目に余る」とか「ぎすぎすした人間関係はいやだ」とか、少なくとも表層ではそういった不満・意識があって、その気持ちを正当化したり自分の思う方へ変えていくことを支持してくれたりしてくれる「ツール」、しかも何だか科学(っぽい)という権威付けもあるし…だから小躍りして使ってみましたという感じです。


 つまり多くの人にとっては水伝の話自身が目的ではないかもしれないということですね。水伝が自己目的化しているような人がいるとしたら、それこそそれを直接に商売にしようとしていた(かもしれない)人に限定されるんじゃないでしょうか。


 とすれば、いくらツール(疑似科学)の部分を批判されても「自分の真意はそんなところにはなかったんだ」みたいな反応をするでしょうし、ツール自体の間違いを否定されても積極的には反論もしないということになってきます。
 そして場合によっては(不承不承でも)納得して「そのツール」を捨てたとしても、またぞろ似たような「別のツール」(これももしかしたら疑似科学絡みかもしれない)が出てきたときに、反省もなくそちらのツールに乗るというように過ちが反復される構図があるのかもしれないと、そんなことを考えていました。


 水伝に引っかかる人が少なからずいるということに危惧を抱く方々のお考えはかなりわかってきたつもりですが、そのインチキさをいくら熱く語ったとしても、上記構図みたいなものがあるとしたら、それは場合によってはずっと続くモグラ叩きのようなものになってしまうかもしれないなあと思わないでもないです。


 一番良さそうに思えるのは、科学が権威として使われ難くなるような教育、つまりその「可謬性」(間違えることもあるということ)とそれを検証できる「自己修正能」があるということをしっかり教えることではないかなと。
 でも一度「権威」になってしまったりすると、それを自己否定するというのは難しいことかもしれませんね。真摯な科学者ならできるだろうという望みもありますが。