ベンサムの言葉

 池田信夫ブログで、以下の文脈で引用されていたベンサムの言葉ですが

…そもそも鯨を殺すことが非人道的なら、牛や豚を屠殺するのは人道的なのか。ジャック・デリダは、「鯨やイルカを守れ」という主張をどう考えるか、という質問に対して「そういう哺乳類と他の動物との差異は絶対的なものではありえません」と答えている。彼は「動物たちが人間たちの欲求のために畜群として大量飼育されながらも絶滅される運命にある、そのような邪悪なやり口によって科せられるジェノサイド的責め苦が存在するのです」とのべて、ベンサムの次の言葉を引用する:


 The question is not: can they speak? but can they suffer?

 これは(ベンサムの言葉の)以下の部分に相当すると思います。

 暴君以外に誰も抑圧することのできなかった権利を,人間以外の動物たちが獲得しうるときが来るかもしれない。肌が黒いことを理由にして,1人の人間が加害者の気まぐれに任せられているのを座視することはできない,ということがフランス人にはすでに分かっている。人間以外の,感覚を持つ動物についても,足の数,体表面の毛,仙骨の末端を理由にして,そういう被害にあうことを座視できないとされるときが来るかもしれない。越え難い一線をきめているものとして,ほかに何があるのか。理性的能力か,それとも,ひょっとして言語能力なのか。しかし,生後1日,1週間,さらには生後1カ月の幼児と比べても,大人の馬や犬の方が比較にならないほど会話の相手がつとまるだけでなく,理性的でもある。だが,馬や犬がそういうものでないとしても,そんなことが何の役に立つのか。問題は「推論を行えるのか」でも「話せるのか」でもなく,「苦しむことがあるのか」なのである。

 実はこの引用も孫引きで、元ネタはピーター・シンガー論文からだったりします。
(『バイオエシックスの基礎 欧米の「生命倫理」論』、H.T.エンゲルハート、H.ヨナス他、加藤尚武・飯田亘之編、東海大学出版会、1988、p.205以下)


 →過去記事:他者のいたみはわかるのか?