「寛容について」の補遺

 「寛容」がtoleranceと全然異なると主張するのではもちろんありません。訳語として一般に通じるだけの近縁性は当然あるでしょう。ただそれを全く置き換えて考察するだけの同一性を考えてよいのか、というようなことは疑えば疑えるものではないかとも思っております。
 id:hokusyuさんの論考で「寛容の理念の根幹」を「文化や政治における敵対関係を、理性的な討議の場に解消すること」と置かれたのは、ご自分の考察を進めるための作業仮説としては問題ありませんし、むしろそこらへんが読んで興味を感じた(私を含む)読者にアピールしたところでもあろうと思います。
 でもそれを逆に事象に適用して解釈する時に、微妙に「ずれ」が出ているのではないかと感じたのが昨日のエントリを書こうとした初発の動機です。


 「諷刺画事件」を西洋的価値観を守るための行為だと考えれば、その西洋的価値観に「寛容」が入っているとすると彼らの行為は当然矛盾してきます。これは間違いのないこと。
 ただヨーロッパの雑誌や新聞が主張した守るべき価値観というものに「寛容」が入っていたか(彼らがそう意識していたか)どうかは難しいところなのではないでしょうか。彼らにはまず「表現の自由」という名分があり、それとオーバーラップするものとして「寛容」が考えられていたのかどうかを考えてみなければならない、とそう思いました。


 またジャック・ル=ゴフの言に関しましても、寛容の精神が持てぬ者に対して寛容でいられないというのは明確な矛盾に思えますが、もしかしたら「寛容であらぬものに対しても寛容でなければならない」という感覚が最初からあまりない、つまりtoleranceはそれを強く要求しないのではないかと感じたのです。


 そしてここらへんの「ずれ」は、toleranceに「博愛からくる寛容」というニュアンスよりも「ノブレス・オブリージュからくる寛容」といったニュアンスが色濃いがゆえのものではないかと思えたのです。
 それで昨日のエントリを書いたのでしたが、何せそう明確に断定してしまえる材料もなく、ずいぶん舌足らずのものになってしまった感はあります。そこらへんは申し訳ないです。


 ただ一つ、理性があるから寛容であらねばならないという考え方、これは昨日あげた渡辺氏の「寛容」に通じているものですが、それをtoleranceに戻して考えるのにはやはり無理があるように思えてなりません。
 少なくとも「tolerance」は宗教的文脈から生まれてきたものであって、理性主義的な立場からそれを捉えるのはあくまで順番としては後のものであるからです。
 まだすっきり書けているとも思えませんが、昨日hokusyuさんにいただいたコメントへのお返事を兼ねて書き足しておきます。