橋本治の『恋愛論』

 fancyboxさん@いつも気まぐれ、の「だからなんで恋愛で救済されると思っているのさ」という記事を読ませていただきました。
 この記事でfancyboxさんは橋本治の『恋愛論』を引用されます。

 なんか今そこら辺ですごい誤解っていうのがある。恋愛っていうのは、なんか素敵なことで、なんか素敵な人が自分を、ほとんど文句なしに助けてくれることなんじゃないかっていうね。そんな恋愛っていうのは自分で勝ちとるもんだし、その勝ちとるプロセスの中でおのずから意味が生まれ発見があり、そしてそのことによって自分が変わって行き、そして更にすごいことがあるんだとしたら、そのことによって相手である他人も変わって行くことがあるっていう、そういうことですね。

 これは頷くところがある話で、確かにそういう誤解をする人がいたなら私も何か言ってやりたいと、橋本さんイイコト言ったと思わないでもないですが、この引用に続けてfancyboxさんは

 わたしが本田透が礼賛する「純愛」ってものに反発しか感じないのは、彼が「変わることを求めない」ことが純愛だと定義しているからだと思う。

しかし何故アニメのキャラクターや人形などを妻にしたり子にしたりする人がいるのかね

 というように鉾先を「非モテ」や「オタク」のほうに向けられます。「恋愛っていうのは、なんか素敵なことで、なんか素敵な人が自分を、ほとんど文句なしに助けてくれることなんじゃないかっていう」誤解を主にしているのはそういう人なのだと言うように。


 でもそれはちょっと違うのではと思えるんです。特に本田さんのあたりは、私が氏のサイトを「日アス」の頃から拝見していたというのもあるのですが、とても屈折していらっしゃって(いい意味で?)、そんな単純な誤解で仕舞にするような人ではないと(ほぼ)断言できますし、一概には言えないのですが「非モテ」論陣の人でもそこまでナイーブな人はむしろ少ないような感じを受けています。
 先のfancyboxさんの引用の直前、『恋愛論』の冒頭で橋本治さんは次のように言われています

 恋愛に関する一番重要なテーゼっていうのが何かって言いますとね、それは「他人を愛させたら勝ち」なんですね。「他人に自分を愛させたら勝ち」「他人を愛してしまったら負け」「他人に愛されてしまったら身の不運」、これですね。恋愛っていうのはいわゆる"愛"っていうのとは違う。もっとエゴイスチックで駆け引き―つまり戦いみたいなもんなんですね。なんか今そこら辺ですごい誤解っていうのがある。…
恋愛論、p.86)

 ここから最初の引用につながるわけです。


 むしろ本田さんや多くの非モテの人を語るならここを引くべきだと思います。
 彼らはこの「エゴイスチック」な「駆け引き」から降りようとしている人なんです。(それが正当かどうかは別に)恋愛で自分を愛させることに概ね絶望して、最初からこの「戦いみたいなもん」に参加しないでおこうとしている人たちと言ったほうが正しいと見えます*1


 おそらくfancyboxさんが言うところの「恋愛っていうのは、なんか素敵なことで、なんか素敵な人が自分を、ほとんど文句なしに助けてくれることなんじゃないかっていう」誤解をしている人は他のところにいます。その筋だけみるとかなりうんうんと頷くこともできるのに、なぜかfancyboxさんは妙なところを叩いておられるように思えて、そこらへんは少々残念と思わざるを得ません。
 いいことおっしゃっていると感じるのですが…

*1:恋愛の九条教徒なんですよ(な、なんだってー)