熱くなったら勝負には負けるもの

 こちらの「夢を全否定された気分に陥った。」という記事なのですが、読んでいてとても辛い気分になりました。
 「夢」という言葉の使われ方の、一番危ういなと思われるところがはっきり出ていると見えたからです。


 例外もいるでしょうが、現実の人間一人一人なんてそれほどたいしたものではないです。それこそ背景だったり立場だったり、そういう様々なもので大きくも見えたりそれなりのことができたりもしますが、それはよくよく見れば個々人が特に優れているという話には直結しないのが当たり前だったりします。
 どんなに持ち上げられている人でも冷静に自分を見ることができれば、そんなに大したものではないと思えるはず。それは謙遜というより往々にして正しい自己認識です。


 ただなかなかそういう卑小な自分というのは認め難いもの。また私は現実の自分プラスアルファで自己認識をするというのはありだとも思っています。小さな自分観だけだとモチベーションが続かないですし、いたずらな自己卑下は自分を萎縮させます。また「幻想我」込みで自分と考えることで、それこそ実力以上のものが引き出せたりもするものだろうとも思います。
 それでも時に現実我を反省的に直視しなければならないのは、取りあえずある程度客観的な自分がわからなければ何を今すべきかの正しい手がかりが見えなくなってしまうからです。ですから一概に「現実を見ろ」みたいな言い方が正しいとも思わない反面、それが全く見えなくなっている状態も危惧すべきものだと感じています。


 「夢」という言葉がかなり頻繁に歌詞の中に登場するようになっているのに気付いた頃から、そうした歌詞がもしかしたら一部の人にお手軽な幻想我を与えてしまっているんじゃないかと思えてなりませんでした。
 夢や希望というものが自分の努力を引き出すものであり得るというのは何も昨日今日始まったことではありません。ただある時点から「夢を持て」といったような言い方が商売になってしまっていて、むやみにそれに煽られて自分を見失う人が多く出現し、またそれが麻薬のような幻想我への逃避を生んでしまっているように感じられてもいたのです。
 現実の自分を認めたくないがために(空虚な)「夢の自分」=幻想我に逃げ込んでしまうだけならばそれは本末転倒になります。むしろその行為は、希望する自分、夢の自分へ実際にたどり着く行程を見失わせてしまうことになりかねません。
 夢や希望があるからこそ方向性が与えられ、現実を認識するからこそ出発点が明らかになります。つまり「今為すべきこと」を知る(というよりむしろ生み出す)ためには、その両方が必要なのです。


 最初に挙げた記事の方を見ていて辛いのは、夢にすがっているように見えるからなんです。何とか必死にそれにすがって自分というものを保とうとするその姿が、かつてのある時点の自分の姿に重なって見えるというところも正直あります*1
 確かに人は「現実我+幻想我」で自分だと思ってもいいのです。でも「幻想我」だけに賭け金を積み上げるのは、自分で自分の首を絞めていくような危うい賭けです。
 この方は率直に自分の成績が悪いことを語られます。それは三者面談で先生が言ってくれたことによって一歩進んで、現実我と幻想我の乖離に気付けたということのおかげでしょう。閉鎖感にとらわれたり、怒り狂ったように反論しようとしたり、でもそれを乗り越えてこうやって語れているのは確かに前進です。


 ただ、にもかかわらず筑波大学というところに拘り続けていらっしゃるのは、これは今まで積み上げた賭け金が降ろせなくなっている状態にまだ見えます。そういう風に熱くなった状態では大概勝負に負けるものです。
 頑張れと言ってやりたい気分にもなります。案外こういう状態からもうまく入試にパスしてしまったならばなんとかなるだろうという気もします。
 でもそれはよほどの僥倖を当てにする行為です。実際に隣にこの方がいたとしたら、とてもお薦めできません。かっかしている人に賭けを止めさせるのはとても難しいことだとは思います。でもできることなら冷水をかけてあげたいと強く感じます。


 ここは一旦筑波に賭けた賭け金をおろすべきでしょう。そしてもう一度現実の自己認識から始めて、賭けるに足る夢や理想を再構築すべきです。もしそこで冷静に筑波のAC入試なりが視界に入ってくるなら再度それに挑戦する道筋を作ればいいだけです。一旦引きましょう。
 実際のところ、一度冷静になれたならばいろいろな可能性が見えてくるはずです。何も大学入試に賭けるばかりが道ではないこともよくわかるでしょうし。


 高校で成績が悪い、赤点をぎりぎり回避するぐらいであるというのは、実はそれほど入試に向けての学力的ハンデではないのだと思っています。一年かそこら浪人してもよいのであればなおさらです。
 ただ、この方が通常の授業において頑張れないのが「興味が持てない」からであればそれは結構大きな問題です。むしろそれならば特化した分野へ最初から目標を定めるべきだといえるかもしれません。


 記憶力だとか論理的思考力だとか、案外大差はないものです。また少々の差があったとしても、それが決定的なものではありません*2。必要とされる能力は、持続力とか集中力とかいった方面の方が大きいと考えます。そして何より「興味を持ち続けることができる」という能力が何よりものをいうのだと思います。それは持続力や集中力をもたらしてくれる基となります。


 今一度冷静になられて、そして一年後ぐらいに喜びの声が聞けたら嬉しいなと思うばかりです。

*1:だからこれは私の思い込みに過ぎないかも、というのはここで認めておきましょう

*2:大学入試というぐらいであれば