新書の歴史

 作家で評論家の紀田純一郎氏が「新書興亡史」という短いエッセイを書かれていたことがあります。掲載されたのは10年前の文藝春秋社の「本の話」(1998 10月増刊号)で、この号は「文春新書創刊」に際しての臨時増刊でした(宣伝っていうことです)。目次から特徴的なタイトルをいくつか挙げますと
 ・「今こそ、自分で考える 野田宣雄/米本昌平
 ・「学生に「教養」は戻るか 植田康夫
 ・「岩波新書は魔法のランプ 言問有弥」
 ・「文春新書への注文 こんな本がなぜないの? 池内紀中野翠北上次郎山根一眞出久根達郎 他」
 ・「著者自身による創刊10点、一挙公開! なぜ、この一冊を書いたか」
  高橋紘所功吉川元忠吉村昭金子隆一中島義道吉田直哉、野田宣雄、渡辺利夫長山靖生山室恭子
 こういうラインナップで、かなり力を入れて(岩波新書褒めまで入れて)「文春新書」の立ち上げをアピールしていたのがわかります。


 紀田純一郎氏の「新書興亡史」は次のような冒頭から始まります

 昭和という時代は、出版の歴史から見て三つの画期的な発明品を生み出した。「文学全集」「文庫本」そして「新書判」である。
 これらの共通性といえば、ズバリ廉価ということだろう。文学全集については昭和初期に一冊一円の、いわゆる円本として登場、文庫本も同じころ一冊三十銭程度の廉価を売りものに出現、当時の「無産読書階級」から熱狂的な支持を受けた。コーヒー一杯が十銭という時代だ。このように読書人口が大きく拡大したあとを受け、新時代の啓蒙書という形で出現したのが新書判なのである。

 そして最初の新書判として挙げられるのが御存知「岩波新書」です。これが1938年(昭和13年)でした。紀田氏は、これが「ペリカンブックス」という欧米であたりをとっていた叢書を参考にして作られたとします。
(当時イギリスの出版業者アレン・レインは二つのペーパーバックスシリーズを創刊していました。「ペンギンブックス」と「ペリカンブックス」です。創刊当時の「ペンギンブックス」はヘミングウェイの『武器よさらば』やクリスティの『スタイルズ荘の怪事件』などのエンタメ路線、「ペリカンブックス」はバーナード・ショウの『社会主義、資本主義、ソヴィエト主義―知的女性のための案内』やウェルズ『世界文化史概観』などの啓蒙路線だったということです)

 「岩波新書」という名は編集部の長田幹雄が考え出したというが、「ペリカンブックス」を日本式にアレンジした判形(小四六判、のちにB40版)もそれまでの日本にはなかったので、すこぶる新鮮な印象を与えた。創刊は一九三八年十一月で、スコットランドから中国へ伝道医師として赴いたD・クリスティーの『奉天三十年』、「天災は忘れたころにやってくる」という警告を含む寺田寅彦『天災と国防』、戦地の若者に愛読された斎藤茂吉『万葉秀歌』ほか二十点だった。値段は五十銭。

 現在の岩波新書でも「書き下ろしによる一般啓蒙書を廉価で」というスタイルは変わっていないと思いますが、その値段は5月20日発売の四冊で777円・735円・777円・1050円といったものです。700円台あたりから一部1000円を超えるという値付けは、昨今のどの新書でもほぼ横並びの値段だと思います。

 戦後の数年間、新書というジャンルはほとんど岩波の独占だった。大塚金之助『解放思想史の人々』や具島兼三郎『ファシズム』など書名を見ただけでも編集の基本方針が窺われるが、英国パブリック・スクールの入学体験を記した池田潔『自由と規律』や、教養主義の精華ともいうべき小泉信三『読書論』などが版を重ねたのも時代相をあらわしている。

 私が最初に買った新書は岩波ではなく中公新書の『遠くて近い国トルコ』(大島直政)でした。そして最初に買った岩波新書はJ.B.モラル『中世の刻印―西欧的伝統の基盤―』だったのですが、前者大島氏の体験記を元にした軽妙な語り口に比べ、後者はなんてかたくて読み難い本だろうと印象づけられたおぼえがあります。(なかなか読み進まず、高校の授業中に読んでいて叱られた記憶も。いまだにノートを切って作った付箋が10枚ぐらい挟んであります。高校生には少し難解すぎたのでした)

 …「岩波新書」の独占状態にあった市場に各社がなぐり込みをかけたのが一九五四年(昭和二十九)で、この年から二、三年間すさまじい新書ブームが巻き起こった。前年のデフレに端を発する戦後最大の不況により、それまで破竹の勢いだった出版界もあえなくダウン。争って廉価の新書判を出しはじめたのである。その際スポットを浴びたのが伊藤整で、『伊藤整氏の生活と意見』(河出新書)『女性に関する十二章』(中央公論社軽装版)の二点の新書に単行本の『火の鳥』(光文社)を加えた三大ベストセラーが、文字通り読書界を席巻した。

(ここで伊藤整氏が注目を浴びた理由の一つに、氏が翻訳したロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』が猥褻文書販売罪に問われたというスキャンダルがきっかけとしてあったことは否めないでしょう。もちろんそのはるか後に私も購入しましたが、このぐらいのものかという印象(笑)それより『O嬢の物語』の方がずっとあれだと思いました。これも高校の時でしたが)

 新書ブームの真打は、なんといっても光文社の「カッパブックス」だった。戦後まもなく講談社系の出版社としてスタートした光文社は、『二十四の瞳』や『少年期』のようなベストセラーを出していたが、この一九五四年に神吉晴夫(出版局長)のアイディアで新しく新書判を出すことにした。「カッパ」というネーミングには「いかなる権威にもヘコたれない。何のへのカッパと、自由自在に行動する」という意味をこめたそうな。このねらいは八海事件の冤罪性を主張した正木ひろし『裁判官』、軍需産業の実体を暴いた岡倉古志郎『財閥』、象牙の塔の裏側を覗いた本多顕彰『大学教授』などの反権力シリーズに発揮された。

 案外他の方も同じような印象を持たれているのではないかと思いますが、私にとってカッパブックスを「新書」の枠に入れて考えるというのには少し違和感がありました。岩波新書中公新書講談社現代新書などのいわゆる啓蒙的な本と、カッパブックスやNONブックスなどの厚みのある本は書店での置き位置が違っていたため、ずっと違うジャンルにあるものと疑わなかったのです。そして後者は、五島勉の「ノストラダムスの大予言」ものや「血液型性格診断」ものなど怪しげなものも交じって当然の際物(とまでいうと何ですが)だというのがずっと後まで染み付いた先入観としてあったのです。

 神吉は自らを出版プロデューサーとして位置づけ、「創作出版」なる概念を打ち出した。既成の著者を追わず、新しい才能を新しい読者に提供する橋渡しの役を果たしたいというのであるが、「神吉は著者を強制して自分の思うままに書かせ、ときにはつごうのいいように改竄もする」という噂が飛んだ。強制というのは誇張だが、編集者として一歩踏み込んだことはたしかである。「著者をそのように刺激し、援助すること、それが私、つまり出版プロデューサーの仕事なのである」(「私が出版について考えていること」一九五九)。「カッパの本はみんなヒットする」を合言葉に、望月衛『欲望』、林髞『頭のよくなる本』をはじめ、南博『記憶術』、加藤周一『頭の回転をよくする読書術』などが次々にベストセラーとなった。とりわけ岩田一男(一橋大教授)の『英語に強くなる本』(一九六一)は三ヶ月で百五万部に達し、出版史上初のミリオンセラーとなった。書店は「パンのように売れる」と喜んだ。

 ここらへんの「頭のよくなる本」だの「読書術」だの「英語に強くなる本」だのというネーミングを見ていて、こういうのが受けるのは全然今も同じだなとふと思ってしまいました。ライフハックものとか、今でもはてブで頻繁に上位に出てくるものの中には必ずあるじゃないですか、こういうタイトルで気が引かれるものが。はい、もちろん私も一回はクリックしていまいます(笑)

 「新書判は生鮮食料品、文庫本は缶詰」(扇谷正造)という棲み分けがようやく一般読者にも認識されたころ、一九五八年(昭和三十三)二月十六日号の「週刊朝日」は「隠れたベストセラー」というトップ記事で五味川純平の『人間の条件』全六冊(三一新書)を紹介、臼井吉見による読後感を併載した。

 当時の「週刊朝日」は百五十三万部だったから、影響力は大きなものがあった。それまで十九万部にすぎなかった『人間の条件』は、たちまちベストセラーの一位に躍り出て、同年末には二百四十三万部を記録した。四畳半二間の著者の住まいには、出版社、映画会社、放送局から銀行、保険会社までが殺到した。

 私は残念ながらこの『人間の条件』は未読なのですが、物凄い盛り上がりだったのでしょうね。時代に愛された本だったのだと思います。逆にいうとその時代が過ぎ去れば案外読まれなくなるというものでもあるのでしょうが。

 文壇からは「文学的感動ではなく、人生的感動にすぎない」などと評されたが、まさにその人生的感動を求める読者によって支持を得た。それは新書判そのものが開拓したマーケットに正確に重なるものであった。

 三一書房の新書としては、私は『ほんものの酒を!』(日本消費者連盟)をずっと手許に置いてあります。これではじめて純米酒に目を開かれたり、シングルモルトウイスキーに手を出すようになったという個人史的エポックメイキングな本だったからです。もしこの本に出会わなかったら、たぶん私の通帳にはもう何百万か上の残高が記録されていたかもしれません。

 第二次新書ブームは、高度成長の歪みが指摘された一九六三年(昭和三十八)に発生した。当時経済学者の大内兵衛は新書判流行の背景を分析し、「かんたんにはアパート生活、電車通学という条件のもとにおいて、インテリの財布がまずしいということである。それでも近代人は知ったかぶりをしなければならぬからである。いやそうではない。これは出版資本、彼らの設備(とくに編集という知的労働力)過剰、その条件をもってする過当労働のメカニズムの産物である」(「岩波新書の文化小論」一九六三)とした。しかし、新書文化が前述の「カッパブックス」などによって、すでにインテリの枠組みを超えた読者層を開拓していたことは黄小娥『易入門』、坂本藤良『日本の会社』、諸星龍『三分間スピーチ』、占部都美『危ない会社』、五味康祐『五味マージャン教室』などという書目を見ても窺える。「ビジネス読者」「中間層」などという呼称が、これらの読者に与えられた。

 このように紀田氏は「新書判が誕生してから約二十五年の興亡史」を振り返られます。新書の初期の歴史というところでしょうか。引用はしなかったのですがこの他に最初期の「冨山房百科文庫」(冨山房)や、第一次ブームの時の「民族教養新書」(元々社)、第二次ブーム時の「新潮ポケットライブラリー」(新潮社)、「筑摩グリーンベルトシリーズ」(筑摩書店)「みすず・ぶっくす」(みすず書房)、「ハヤカワ・ライブラリ」(ハヤカワ書房)などの個性派についての言及もありました。
 締めの言葉として書かれているのは次のような文言です。

 その後、新書出版はいよいよ盛んで、現代人にとって欠かせない教養源となっているようだが、全体にやや小粒となっていることは否めない。まだまだ未開拓のテーマが眠っているように思うのは、私一人だろうか。

 これが書かれた十年前(文春新書創刊時)から今に至るまで、第三次新書ブームと呼んでいいような新書の氾濫が見られることは言うまでもないことですね。
 この期間に新しく創刊された新書としては、私が買って持っているものだけでも「ちくま新書」「ちくまプリマー新書」「丸善ライブラリー」「洋泉社新書y」「平凡社新書」「PHP新書」「平凡社新書」「KAWADE夢新書」「ふたばらいふ新書」「リトル・モア」「同文新書」「宝島社新書」「講談社+α新書」「新潮新書」「ソフトバンク新書」「幻冬舎新書」「朝日新書」…
 もう何が創刊し、何が消えていっているかよくわからないほどです。


 でもこのブームにしたところで、紀田氏が概観した初期の新書の歴史をなぞっているんじゃないかという観もあります。

 不況による出版業界の苦肉の策としての新書
 啓蒙書を超えた新しい読者層の開拓
 新しい(タイプの)著者の大開拓 (←追加)

 大まかにこれだけははっきり歴史が繰り返しているものではないでしょうか。


 さらに感想としては、かつて新書が担っていた役割、そして人気の或る部分は確実に「ネット」(そしてブログ)が侵食しているんじゃないかということが挙げられます。

 お金をあまりかけずに
 最低限の教養を得る手段/知ったかぶりできるネタとして
 またライフハック的側面において役立つものとして

 これらは必ずしも「新書」という形態を必要とせず、ネットで代用が利く部分が多いと思うんですね。
 もしかしたらこの「第三次ブーム」は、新書の最期の盛り上がりなのかなという感じも無きにしも非ずです。