さだまさしの「まほろば」における「宛て名のない手紙」解釈問題
さだまさしの歌はオカルト(アルファモザイク)というのがSBMに出ていましたが、ちょっと思い出しましたので一つ話を。
さだまさしさんの歌に「まほろば」というのがあります。
歌い出しは
春日山から飛火野あたり
ゆらゆらと影ばかり泥む夕暮れ
歌い終りは
日は昇り 日は沈み 振り向けば〜
何もかもうつろい去って
あおによし 平城(なら)山の
空に〜 満月
となるもので、歌詞に古語を取り入れた短調のちょっとシリアスで激しい歌です。
個人的には彼の歌の中で五指に入るほど好きな歌なのですが、
この歌詞の一節に
たとえば君は待つと
黒髪に霜の降る迄
待てると云ったがそれは
まるで宛て名のない手紙
というものがありまして、この「宛て名のない手紙」という言葉のあたりが何だか謎めいた歌詞になっているのです。
こちらのサイトIchishuのさだ作品批評シリーズでは、なかなかに古典を踏まえた真剣な解釈をなさっていて興味深いのですが、「宛て名のない手紙」については
しかし、どうしてもここでひっかかることがある。「まるで宛名のない手紙」とはいったい何のことなのかということである。この解釈にはずいぶんと悩んだ。ただ単に「届くはずのない手紙」という意味か。「不確かさ」を強調するためのものか。いいや、そんなことはないだろう。さだのことだ。もっと深いに決まっている。しばらく考えてふとひらめいた。宛名のない手紙というのは、宛名を書き忘れたのだとばかり思っていたが、意図的に書かなかったということはないのだろうかと。すると、今まで、もやもやしていたものが一気に晴れた。
それはこういうことである。例えば、「あなたを愛しています」というメッセージ。私たちは、少なくとも自分の人生の中で、このメッセージを複数の人に言ってないだろうか?(そんなことはありません、という一途な人ももちろんいるでしょうが) あるときは、「Aさん、私はあなたを愛しています」といい、その三年後には「Bさん、私はあなたを愛しています」という。これは一見矛盾していているが、決してウソではないのである。なぜならば、人の気持ちは変わるから、その時々において、それらのメッセージはいずれも本当だったのである。この2つのメッセージは、内容が同じで、宛名が違うだけである。手紙に例えれば、「愛しています」という中身だけあらかじめ書いておいて、宛名は空欄にしておくようなものである。そうすれば、そのつど愛する人が変わっても、宛名を替えるだけで済んでしまうという皮肉である。
この歌詞の中での「宛名のない手紙」の意味は、「君が黒髪に霜のふる迄待てると云ったその言葉」は、「もしかすると数年後には僕ではない別な人に言っているかもしれないだろ」と。つまり、黒髪に霜のふる迄待てるなどということは、僕にはとても信じられないということである。
という解釈を取っていらして、「高度なメタファー」とおっしゃるのですが…
この部分に関しては私は妙な自信があります。
これは高度なメタファーではたぶんありません。
さだまさしが落語好きというのはよく知られたことですが、そこから解釈すれば見えます。
この「宛名のない手紙」というのは
たよりにならない
という洒落です(きっと)。
これは私が高校の頃から一つ話にしていたネタなのでした。