私たちは辻占をしている

 「当人がいじめられたと思えばそれはいじめ」という認識がある程度拡がってきていると感じます。これは今まで客観的な証拠だの証言だのとハードルを高くされ、「いじめ」と認められてこなかった被害の暗部に光を当てるものとして評価されるものだと考えます。
 ただ当人にとっては今までだって「いじめ」は感じられてきたわけですし、それは確かにあったもの。いじめが何か他のものとして認識されたのではありません。どこが変わったかと言えば、周囲のいじめ認識の閾値が下がったということなのだと思われます。
 そして結局、「当人が思えば〜」という新しい基準の基底にあるのも「周囲(他者)によって認められること」だということはちっとも変わっていないのです。つまりある行為が「いじめ」として認定され、被害回復につながるアクションが周囲に現出するためには依然として他者の承認が必要ということです。
 それは決して「自分が思えばそれは正しい」ということではありません。


 主観は他者による確実な検証を拒みます。せいぜいできるのは(不十分ながらも)共感であって、その共感が正しいか否かは誰にも判断できるものではありません。それは正しさ以外の価値を持つものです。
 そして時に自分のある時点での「共感」が間違っていたんじゃないかと思うのもよくあること。ある人の主観をどこまで受け容れるかは常に難しい判断になります。それを全部否定すれば社会生活は営めなくなるのは明らかですが、逆にすべてナイーブに受け容れることも「思い込みや虚言」に対して有効な手立てが見えないため普通とられる道ではありません。「よかった、病気の子供はいないんだ」と心底言える人がどれだけいるでしょう?*1


 たとえばネット上で「自分は傷つけられた」とか「誹謗された」とか言う声は毎日のようにあがっています。その声が「事実」として共有されるかどうかは、どれだけの人がその声を認めるか、認めたくなるだけの明らかなものが揃っているか、そしてどれだけ共感を呼ぶかにかかっていると思います。(残念なことに)それがひとえに事実に拠る、とは見えないのです。(それをこなすにはあまりにも各人のリソースが足りな過ぎます)


 これは譬えてみるならば、ネット上で皆「辻占」をしているという状況にも思えてきます。
 東大阪市にある瓢箪山は、現代でも辻占がさかんなところとして知る人ぞ知るという場所です。近鉄の各駅紹介におけるその瓢箪山稲荷神社駅のサイトには次のような説明があります。

 全国的にも珍しい辻占(つじうら)が今も盛んなことで名高く、境内は庶民信仰の根強さを物語る独特の雰囲気がただよっている。
 かつて、この門前は辻占のメッカで「占の里」とも呼ばれた。
 辻占は万葉集に出てくる夕占(ゆうけ)のことで、道行く人によって神意を占う、古代もっともポピュラーだった占いのひとつ。
 現在行われている辻占の手順は、おみくじを引き東参道入り口の占場(うらば)に立つ。
 おみくじの番号が仮に2なら2番目に通る人の性別、服装、持ち物などを観察し、社務所に戻って報告する。宮司さんはこのデータをもとに神意を判断するというもの。

 萬葉集中には「夕占・足占・石占・道行き占・水占」の語があります。そのほとんどの占の有り様はいまや詳しくはわからないものとなっています。以前に数えたことがありましたが、占・卜・象(形)等の語を含む歌は萬葉集中二〇首あり、その中で最も多く見られるのが「夕占」で九首を数えます。

巻第四 739
 月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をぞせし行かまくを欲り

つくよには かどにいでたち ゆうけとひ あしうらをぞせし いかまくをほり
(月夜には門前に出てたたずみ夕占や足占をしました。(恋しい人の許へ)行きたいと思ったので)

巻第十一 2511
 言霊の八十の衢に夕占問ふ占まさに告る妹は相寄らむ

ことだまの やそのちまたに ゆうけとふ うらまさにのる いもはあひよらむ
(言霊の振い立つ四通八達の道筋で夕占をしました。占いはまさに告げてくれました、あの人もなびいてくれると)

 (角川文庫版『万葉集』上・下、伊藤博校注)

 この夕占については、伊藤博氏が「夕方、辻で道行く人の言葉を聞いて吉凶を占うことか」「言霊の活動する夕方、辻で、行き交う人の言葉の片端から吉凶を占うこと」などとしている内容がほぼ定説とされています。そして「言霊の八十の衢」という占の場・黄昏時の時間は、神的な存在が賑わうところで、神意を漏れ聞くに相応しい場所と感じられていたのでしょう。それはそのランダムさにおいて、もしかしたら現在のネット空間に通じるものでもあるかもしれません。

*1:もちろん憧れますが。⇒http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20061003#p2