「死に神」表現と勧善懲悪

 世にある勧善懲悪ストーリーに馴染んだ人ほど、「素粒子」に書かれた「死に神」という呼称に対して違和感を感じるのかもしれません。たとえば時代劇、前半から中盤にかけて弱い立場の人たちが搾取され・レイプされ・殺されて、たまりにたまった不正義への怒りの感情が終盤のばっさばっさと悪人が切り殺されていくところのカタルシスを産みます。勧善懲悪のお話は、人を犯すもの・人を殺すものは自らもまた殺されなければならないといったような単純な倫理観の再生産をするものでもあるのです。


 勧善懲悪型の時代劇はテロリズムを推奨するかのようです。そこでは権力関係などで罰せられない不正義を「法を超えた正義」の力で粉砕するものも多く、中には順法的なお白洲での裁きをクライマックスにもってくるものもありますが、それでさえ悪人側を暴力で膺懲するシーンは定番として必ずのように挟まれます。
 「悪の暴力を懲らす正義の暴力」という視点は、これは正当化されたテロリズムと言っていいのではないでしょうか。


 そこで基準となる膺懲(懲らしめ)の程度ですが、相手が(先に)殺したならその相手を殺してもかまわないといったあたりまで許容されている(許容される場合も多々ある)というものでしょう。『破れ傘刀舟悪人狩り』や『必殺!』シリーズ、『桃太郎侍』では確実に相手を殺すシーンが出てきます。(逆に言えば、これらの番組では悪人が弱者を殺すシーンが前半に必ず登場します)
 たとえば「桃さん」や「刀舟先生」*1が「死に神」と言われたとき、そういう話だと思っていなかった人はこれに強く抵抗を感じるでしょう。(中村主水を始めとする仕事人たちはおそらく死に神を自認していると思われますので、こちらのファンには抵抗はあまりなさそうです)
 暴れん坊な将軍さまは自らは刀を返して峰打ちするくせに、殺したい者は「成敗!」と手下の忍者に斬らせています。ちょっとずるく「死に神」を回避していると見えます。先の副将軍さまが「殺しはしない」のは最初からだったでしょうか、イメージ的に「死に神」は避けたいところだったのでしょう。


 時代劇に限らず、また日本のドラマにも限らず、こうした勧善懲悪ストーリーで「悪が暴力で懲らされる(場合によっては殺される)」ものは世界中にあると思います。昔話や童話の(原型の)残酷さが少し前に盛んに言われましたが、時代を遡ればそうしたものはどこにもあったものといえるでしょう。もしかしたら死刑制度を廃した国でも「ドラマ」としては今もなお残存しているのではないかとも思います(実際はどうなのでしょう?)。
 これはとてもプリミティブなところから倫理観に訴えるストーリーなのかもしれません。


 ただし忘れてはならないのは、こうした物語はすべてを見通す「神の視点」で語られているものだということです。悪は悪と明確に描かれていますし、殺される悪は先にはっきり殺しています。しかし人が実社会でこうした「神の視点」を得られることはまずありません。
 ここらへんが実際の死刑に対して論じるのを難しくさせるところなのでしょうね。

*1:ちなみに刀舟は「てめえら人間じゃねえや!叩っ斬ってやる!」という、ピーター・シンガーが聞いたら泡を吹いて怒りそうな決め科白をいつも語ります