幸せ(とか承認)とか

 幸せ〜って何だっけ?何だっけ?
 ポン酢醤油のある家さ
 ポン酢醤油キッコーマン
 ポン酢醤油キッコーマンキッコーマン

 この歌がCFで流れたのが1986年。もうこれを知らない世代も多いのかもしれません。
 これが流行ってから20年以上が経ちましたが、私は未だに幸せとは何かについてはっきりしたものを持ちません。幸せとはまったくもってつかみどころのないものです。
 幸せの明確なイメージを浮かべようとしたとき、それはどんなものとして考えられるでしょう?
 自分の過去のある時点を振り返って、あの時は幸せだったなあと思うことはそれほど難しくないことかもしれません。ですが幸せを将来の一つのイメージとして想像しようとしたとき、それは「誰かの幸せ(な姿)」「どこかで見た(聞いた)幸せ像」というものになってしまうように私には感じられます。とても漠然としているのです。
 幸せな交際。勝ち取ったキャリア。暖かいマイホーム。楽しい旅行。思いやりのある家庭。充実した職場。満ち足りた結婚生活と子供、孫。才能が世に認められた栄光。手にした富。ゆとりの老後…
 紋切り型の幸せイメージしか先に見えないように感じられた時、自分が本当にそうしたものが欲しいのか私にははっきりしないように感じられてしまうのです。さらにこうした幸せのイメージは、ちょっと(でも)突っ込みを入れられた場合、それが本当に幸せなのかどうか自分にも不確かなことが多いのではないでしょうか。
 それはちょうど「いい学校に入って、いい就職をして、いい結婚をする」というイメージが揶揄の対象になってしまうのと同じことではないかと思えます。将来の幸せのイメージは手垢にまみれ、むしろそれを信じる方が難しいことになってしまっているかのようです。
 私たちは幸せを本当に望んでいるのでしょうか? いったい何を手に入れたいのでしょうか?


 おそらく将来については不幸せのイメージの方がちょっとだけ明確です。孤独な道行。苦しい生活。世に忘れられた人生。誰にも知られぬままの死…。
 もしかしたら「幸せ」とは「不幸せでない状態」といったあたりで定義付けられるものかもしれません。「健康」が「病気ではない状態」とネガティブに定義づけられるように*1。過去のある時点を想起してそれが比較的簡単に幸せであったと思えるのも、そこにあるいは現時点で失われた何らかの幸せ要素があるからこそ楽に言えるのであって、それは結構「否定性」によって定義されているのではないかとも思えます。


 最近、「他者による承認」がないと不幸だとか「承認格差」だとかいった議論をよく目にしますが、元ネタのマズローの欲求階層説にしても第一層の生理的欲求以外は二次的欲求であったはずで、社会的承認がなく自尊心に欠けたとしてもそれが直接不幸を意味するものではなかったと記憶しています。
 むしろそこにあるのは、「自分以外の誰それは社会的承認を受けて幸せに違いない」といった形でのネガティブな妬心、自分に欠けているものはこの「承認」でそれが得られれば幸せになるはずなのに(だったのに)という形での「欠如によって定義された幸せ幻想」があるような気がしてなりません。
 たとえば親による「承認」、あるいは恋人や配偶者による「承認」が積極的になくても「不幸せだと思わない」人が結構いるということが、この推測を裏づけているようにも思われます。
 気にしなければ案外気にせずにいられるはずのこの「承認」の物語が多くの人にアピールするのは、それぞれ自分の不幸せの方がよく見える(それを探してしまう)といった性向からくるもので、やはりそこには「不幸せでない状態」として幸せを捉えてしまう悲しい性があるのかもしれません。


 とりあえず私は、特別に不幸だと思わなければ幸せなのだろうという程度で自分を納得させることが多いです。うそくさい誰かの幸せ像を信じるよりも、そちらのほうが自分には納得できる気がするからです。
 とはいえ一切皆苦とうそぶく自信もありませんし、やっぱり「幸せ」が欲しいなあと漠然と思ったりする(わがままな)ところは自分から消せないのですが…

*1:WHOの定義には反しますが、案外こんなものと思っています。