セカイ系落書き

 フィレンツェの聖堂での落書きに始まり錦帯橋での落書き落書きで新幹線が運休とかいろいろ耳目を集めているのですが、これらを「自己顕示」が主目的の行動だと捉えれば「ぜひとも無視すべきだ」(⇒偉愚庵亭憮録:グラフィティと美意識)という意見にまったく賛成です。
 ただ「自己顕示」もあるにせよ他の側面も(名所旧跡での落書きには特に)あるんじゃないかと思えて、そちらのほうで問題になっているもの、叩かれ文句をつけられているものは多少違うようにも考えています。


 どこか有名なところに観光などで赴いて、そこで個人名等を書いた落書きを見た時に「(落書き者が)その場所に個人的な思い出を刻んでいる」ということは感知されます。それはその場所とその人との個人的な(特別な)関係(にしようというもの)が刻まれているということであって、言ってみれば他の人のセカイ系的行為を見せ付けられているようにも見えるのです。
 他の人がどう思うか考えろと言ってみましても、セカイと自分との中間に想像力が働かないのがまさにそのセカイ系の特徴なのですから、これはもう言うだけ無駄にも思えてしまいます。ちょっと強引かなとも思えますが、自分と周囲のセカイが直結しているその意味にのみ生きるのがセカイ系であってみれば、自分らの思い出、その場との(個人的)紐帯以外のものが見えなくなっているこれらの落書きは「セカイ系落書き」と言ってもいいんじゃないかと考えます*1


 これに眉を顰め無残さを嘆くよりも、その落書きに触発され自分も自分もと別の落書きを書く行為が実は一つ一つのセカイ系的意味を否定することになっているのはまったくもって皮肉なことです。
 つまりそこが落書きの巣窟になってしまえば、個々の「思い出」「個人的紐帯」はほとんど意味を為さなくなってしまうんですね。ざまを見ろ、ともいいたいところですが、結局それで得をする人は誰もいなくなるという総敗者の状況がそこに現れてしまうことでもありまして、本当にどうしようもないものです。


 それらに主にあるのは「自己中心性」であって「自己顕示」の側面はかなり低いと考えられます。ですから「無視される」ということではそうした行為は無くなりません。直接有効な対策は落書きを止めるように呼びかける(立て札を出す・法で禁じられている・罰金等があると示す)ことぐらいでしょうが、実はその行為自体が名勝地・観光地の景観を壊すものにもなっているという皮肉。他にはそれこそキョーイクで自己中心的な子を少なくするという迂遠な方法があるぐらいかとも思われるのですがどうでしょうか。

*1:中二病的というのもちょっと考えましたが