グーグー4巻を読んで

 大島弓子さんの『グーグーだって猫である4』(角川書店)を読みました。
 大島さんが立派な猫おばさんに成長して、家は猫屋敷化の一途をたどるさまがビビッドに。


 でもこれはわかるような気がします。
 一言でいえば、大島さんは「猫に人格」を認めちゃっているんです。
 人格を認めたらおつきあいというか「人間(猫)関係」が広がって、それがまた一つ世界が開けたように面白い…ということになってしまっているのでしょう。
 猫に人格というと頓狂な感じもしますが、personarity*1の語が「人格」と訳されたのは明治中頃*2でまだまだ新しい言葉。「個性」という訳語もあるこの語は、決して動物に適用できない言葉ではないのです。


 人格を認めるからこそ捨てられて放っておかれている子猫を見殺しにできなくなるのですし、外猫として庭にやってくる猫にまで給餌したくなってしまうのです。それらは「目の前の死にそうなヒトを見捨てる」のときわめて近い道徳的責任感情を彼女に突きつけてしまうのでしょう。


 誤りといえばこれは誤りでもあります。
 少なくとも「相互に人格的なつきあい」というものはカントによって提示されたような形では対動物で成立するはずもありません。
 ただしそれを対人間においてすべての局面で作り上げている人も私は知りません。人を人とも思わぬ扱いをする、もしくはそういう行為を見て見ぬ振りをするというケースはむしろ世の中に溢れているぐらいです。
 また、もともと人間が動物に(場合によっては植物にまで)人格的なものを認めて、個人として特別な関係を持つとか社会として特別な関わりをするとかいうことはレアケースではありません。錯誤は錯誤でもよくある錯誤だったのですし、他者に迷惑をかけない限りむやみに禁じるべきものとも思われないところです。


 対象に人格的な関わりをする場合に、それを食べてしまうというのは基本的な禁忌意識に触れます。それゆえ四足の肉は食べないというタブーがあったり、ベジタリアンという生き方があるのではないかとも考えられます。(もちろん相手の存在を高く認めつつ人肉(内臓)嗜食をする文化も存在したのですが、それは別のお話)
 案外グリーンピースだのシーシェパードだのの人たちも、鯨やイルカに人格を見てしまっていて、それを捕食する文化が理解できずに攻撃してくるだけなのかもしれません。少なくとも私の犬とのつきあいから、私は現存する犬肉食文化によい顔をすることはできなくなっています。
 ただし上記GPやSSの人たちが「鯨に人格を認める」ことを異文化の人に押し付けていることは明らかに迷惑行為にあたるでしょう。大島さんの家が猫屋敷になって、それで周辺の人たちが陰に陽に迷惑を蒙ることになればそれもたしなめられるべきことになるはずです。その時は対策が考えられなければなりません。
 愚行権はあくまで他に害を与えない範囲で認められるべきことだと思いますから。


 人格的関わりを持つということは、基本的には悪い行為ではありません。幼稚園から以降の教育ではおそらく強く勧められるものでもあるでしょう。人を人格的に扱うことができるようになるためには、きちんと学ばなければいけない付き合い方です。
 ただむやみに範囲を拡げるとかなり生き辛くなるのも確かです。宗教的なものまで行きますと、たとえばジャイナ教みたいに食事が極めて制限されてしまいますから(それを敢えて選択する人は認めますが、自分に強いられるとなるとつらすぎです)。
 兼ね合いといいますかある種の「いい加減さ」も学んだ上で、さらには他者に迷惑がかからないようにする配慮を身につけた上で、それで自分の労力やお金をつぎ込んで(たとえば犬猫とでも)人格的なつきあいをするというのでしたら、これはむしろ情操的にはいい影響を与えるものでしょう。
 時々「人間関係がうまく行かない人の代償行為」としてペットと人との関わりを語る人が出てきますが、代償行為である人はむしろ少なく、基本的には人格の範囲の拡大、付加していく行為なんじゃないかなと私は思います。それをむやみに代償だとか言って卑下する論者は何だか信頼できませんね。


 まあいろいろ考えさせられてしまって、単純に面白く読むというより少しはらはら感もありましたが、買ってよかったという本ではありました。映画化はどう作られるのでしょう。期待半分不安半分というところです。

*1:personの語は権利義務の主体という意味で用いられます

*2:井上哲次郎によって作られた訳語