相対主義と男と女

1 「善い」という言葉は「ある特定の社会にとって善い」ということを意味する。
2 ある社会の人々が、他の社会の価値や道徳的行動を批難したり干渉したりするのは不正である。

 これを社会科学的な意味での相対主義の立場とすると、以下のような批判が考えられます*1

 相対主義は明らかに一貫性を欠いている。なぜならそれは第二の命題において、他の社会のことを扱う上での正しいことと不正なことについて、ある主張をしているが、この主張は第一の命題では許されていない「正しい」ということの非相対的な意味を使っているからである。

 相対主義は「正しさ」の押し付けは良くないという立場で、その前提には「異なる社会には通訳不可能性がある」という了解があります。これ自体は直観的に間違っていないと思えるものなのですが、「どこそこが異なっているため通訳できないのだ」という正しい認識は(理論的に)不可能なはずなのです。
 それは、相対主義的判断をする人も「どこかの社会の一員」であって、通訳不能な他所の理解はできないはずだからなのですが、実際にはこの条件は顧慮されていません。わりに安易に相対主義的言明はなされています。
 それゆえ

 相対主義を主張するものは、その相対性の認識根拠に独断主義を隠し持っている。つまりその人は、自分(だけ)が二つの世界を客観的に認識していると思い込んでいるのだ。

 という批判が出てきてしまうというわけです。
 実際「どこが違うか」を正確に言えないとすると、「違いを考慮しないで正しさを押し付けている」という言明は権利的にできないはずなのですから…


 ただこの批判は、相互理解の局面での漸近的な立場(地平)の融合という側面を考慮していないきらいがあると感じてはいます。


 男性が「男には男の、女には女の言い分がある。男と女はわかりあえないんだよ」*2と言います。
 女性が「女には男がわからないって男のあなたになぜわかるの?」*3と反論します。
 ここらへんが上記批判と同じレベルのものでしょう。
 でもたぶん、女にはわからないとこの男性が考えることができる程度にはこの人は女性を理解しているのです。


 これは男と女を取り替えても全く構わない話です。


 女性が「男の考えと女の考えは違うわ。男と女の考えていることなんて同じじゃないのよ」*4と言います。
 男性が「男の考えが女の考えと違うって、どうして女の君にわかるんだ?」*5と言い返します。
 ここでもおそらく女性は男性の思考に(限定的であったとしても)越境しています。
 そしてこうした「越境」、立場の融合の可能性がないとするならば、相互理解というものは永遠に閉ざされたものになってしまうだろうと思うのです。


 良い例かどうかわからないのですが、今ちょっと頭が働いていませんのでこのぐらいで…。

*1:バーナード・ウィリアムス『生き方について哲学は何が言えるか』産業図書、1993、より

*2:ちょっと修正。元表記「女にはわからない!」

*3:修正。元表記「女にはわからないって男のあなたになぜわかるの?」

*4:修正。元表記「男にはわからないものよ」

*5:修正。元表記「男には女の考えがわからないということが女にどうしてわかるんだ?」