顔色を窺う

 ネコ派、イヌ派なんてことも時々話題で見かけますが、案外お決まりのように「ネコは自由でいい」とか「人の顔色を見ないネコが好き」とか「飼い主の顔色を窺うイヌは嫌い」とかネコ好きの向きからは語られたりします。そしてイヌについては「権力のイヌ」だとかその従順さを嫌うような慣用句があったりします。


 両方と暮らしていたことがある経験から言えば、ネコだって人の顔色を窺いますしイヌだって不従順な時はたくさんあります。個体差ももちろんありますし、状況にも拠りますけど。
 ネコの自由気ままさが良いとかいったクリシェは、あれは自分の願望をそこに見て取っているだけじゃないだろうかとずっと前から感じていました。
 親がかりでなくては生きていけない幼少期から、成体に近づくにつれてどこかで転換しなければいけませんので、ある時期のヒトの感情に独立自尊を願う気持ちが生じるというのは当たり前のことでしょう。ただしヒトは孤立無援で生きていくこともできないというのも確かなことで、結局どこかで折り合いをつけて中庸を得るということが必要なのです。
 でも中庸ということこそ本当は難しいわけで、人が育てられる色々な社会においては「独立不羈」を望ましいとする傾向とか「従順穏当」を良いものとする傾向とか、なんだかやや中庸からずれたスタンダードばかりがありがちなのではないかと思えます。本当はどちらかだけが良いなんて言えるものじゃないんですが…。


 「独立の、自主の、自由の」とか「独立者」とかいう訳語があてられるindependentという単語は、「依る、頼る、〜次第である」というdependの派生語dependent「頼っている、従属関係の、隷属的な…」をin(=not)で打ち消すところからできた言葉です。
 dependに「信頼する」という意があるように、もともと誰か(何か)に依るということ自体は否定的にも肯定的にも捉えられる両義的なことのはず。(だから上記dependentの訳語は色がつきすぎですね)
 むやみにindependentがいいなんて風潮は、それこそ偏ったものではないでしょうか。そういう風潮は若々しさというか、どこか未成熟な社会をイメージさせるものと感じます。


「嫌われないよう生きるのに疲れた」父親殺害で長女供述

 埼玉県川口市で製薬会社の男性(46)が私立中学3年の長女(15)に殺害された事件で、長女が県警の調べに、「人の顔色を見て、嫌われないように生きるのに疲れてしまった」などと犯行動機について供述していることが7日、分かった。

 これまでの県警の調べでは、長女は「お父さんとお母さんによく思われたいから、一生懸命勉強をやっていた」と話した。だが、3年生になってから成績が下がり気味となり、気に病んでいた。(後略)
MSN産経ニュース 2008.8.7)

 「よく思われたい」というのは本来ネガティブな感情ではないはずです。ただしそれが「嫌われるのを避けている」と思えてしまうと、なんだか自分が情けなく感じられてしまうんですよね。それは中学生とかの時分によくあったことと自分でも記憶しています。
 顔色を窺うことがそれだけで悪いことのはずがない、というように誰か教えてあげられていたら…と思いました。人に依るだけでもいけないけれど、独りよがりもいけないもので、その中間があるんだよということをです。