内部と外部

 内部と外部を考えるなどというのは一見単純な二分法ではないかとも思えるのですが、いやそんな簡単なことではない(かもしれない)とある種の衝撃を以って私を混乱させてくれた本があります。これも確か80年代の後半に読んだものです。

 任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という。
 (森敦『意味の変容』筑摩書房1984

 最初に読んだときには何か歯が立たないという印象を受けたものでした。
 単純に内に非ざれば外、外に非ざれば内というものではないと、また内も外も全体概念として捉えることができることなどを示してくれた森氏の独自の論理は、決して難しい用語を使うわけでもないのですが、それまで自分は何も考えていなかったんじゃないかとまで突きつけてくる何かを感じさせてくれたのです。

 内部+境界+外部で、全体概念をなすことは言うまでもない。しかし、内部は境界がそれに属せざる領域だから、無辺際の領域として、これも全体概念をなす。したがって、内部+境界+外部がなすところの全体概念を、おなじ全体概念をなすところの内部に、実現することができる。つまり壺中の天でも、まさに天だということさ。

 これは、外部がなければ内部は成り立たないはずなのに、なぜ人は内部だけを世界と感じることができるのかという問いに対する答えの一つではないかとその当時思いました。

 内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に密蔽されているという。且つ、内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に開かれているという。つまりは、密蔽され且つ開かれてさえいれば、内部といえるのだから、内部にあっては、任意の点を中心とすることができる。


 人間はいかなる点も中心として立つことができるが、必ずそこに矛盾として実存する。ついでに言っておくが、境界もまた矛盾として全体概念を形づくるものであるから、全体概念をなすためには、必ず矛盾が孕まれねばならない。

 内部が外部に規定されるというところは「境界が外部に属する」という表現で示されます。しかし同時にその境界は内部を実体的に規定するものではないところから「内部は開かれている」ともいい得ます。こうした「内部」のあり方を実際の世界にあてはめて考えてみたとき、ほとんど絶望的に自分は社会を知らなかったのだと当時は思えたものです。
 今はまたぐるっと回ってきて、単純な図式にはそれなりの真理があろうと思えておりますが(笑)