コピペ

 昨日のクロ現は「コピペ」について考えるといった放送でした。雑誌を読みながら見るともなく見ていたのでしたが、知識を検索によって得ることと検索して見つけた文を右から左に使うことは違うだろうとやはり思われました。
 集合知的なネット上の情報の総体はかなりなものになりつつあります。なまじっかな「専門家」にとってはご飯の種が危うくなるぐらいの勢いで、ただの素人でも簡単な検索によって手にすることのできる情報の閾値は低くなってきていると感じます。
 ただし、単に検索して見つけたものをコピペするだけではこの集合知に与ることはできないでしょう。そこに最低限の選択という関わりはありますが、表面だけなぞるだけではもったいなくもその知が自分に資することなく消費されてしまうことになるでしょう。
 フリーの読書感想文データベースを作って夏休み中の小学生に提供し、「今しかできない時間を楽しんで欲しい」などとやっている方が紹介されていましたが、あれはむしろ小学生の「本と出会って悪戦苦闘する時間」を奪うようなものじゃないかと思えました。確かにいわゆる「名作」だ何だと押しつけられた本で、いい加減に書き連ねた作文(感想文)を書かされるというスタイルは生産的ではないかもしれません。他の方向が望ましいとは感じます。それでもなお、百害あっても一利として「その本と出会った」ということだけは本人の中に残るものと考えますし、何人になるかわからないですがそれが本人に資することになる子だって出てくるでしょう。プール行って友達と遊んでスイカ食べて寝る「休み」を味わうのも貴重でしょうが、コピペで感想文を仕上げることができるということでその本を読みはぐれる子供を作ってもいいことはないんじゃないかとも思います。


 斎藤孝氏の著書には感心したことがないのですが、昨日の番組で氏が「書き写す」ことの身体性というものを強調されていたのには共感できました。せめて自分で書け、ということです。筆記じゃなくてもキーボード入力でもいいですから、本を入手して線を引くことじゃなくて検索でもいいですから、せめて自分の目と脳と手を通させる程度のことはして、たまたまのその知との出会いを少しでも血肉化しないことには「もったいない」と思えるんですね。
 今では死語になったかもしれませんが、ネットが最初に普及し始めた頃の「ネットサーフィン」、あの探求の仕方でもいいと思うんです。一つの出会いからどんどん好奇心で次へ進んでいく、せめてそういう姿勢があるのでも、検索してコピペするだけの単純労働を超えて出会ったものと関われる気もするんです。ですから、最初から「答え」「決定版」みたいにして感想文のデータベースを揃えてあげるなどという行為は、たとえ小学生からの感謝の言葉をいっぱいもらえるにせよ、大人として残念な行為に見えてしまうのでした。


 検索して見つけた文をただ右から左に使って課題をこなすなんてことは、自分で自分の可能性を狭めているだけのことと思われます。そういう意味でのコピペには反対です。