個々人の意志に期待しすぎないこと

 もちろん個々人の崇高な意志が何か尊いこともしくは重要なことを為すこともできるとは思いますが、それはあくまで巡り合わせで、後から振り返ってすごいことができたねと褒められるだけのこと。
 たとえば高層ビルの吹きさらしの屋上で、小さなロウソクに火をつけて「これを消さずにいてください」と命じることは、それがせいぜい期待するぐらいのことであったとしても、能力を超える無理な指示には従えないのは明らかで期待するのが悪いでしょう。
 あるいは隣の席との間隔なく座らされた大きな教室で、「これは大事なテストです。でも絶対カンニングはだめ」とだけ言ってろくな監督員も置かずに試験をさせるというようなこと。当然のごとく誘惑に負けてしまう学生が多発すると想像できますが、それを潔癖でなかった学生の意志の問題にすべて帰することはまあ無理なことと感じられます。容易にカンニングができないような環境を作ってから試験させるというような配慮が必要なのです。


 個人の業績につながるような仕事を各自にやらせる、という場合は別でしょうが、なにか集団的な営為を、個々人を啓蒙して、その意志に多くを期待して、過重な役割を振ってうまくやろう(やれるだろう)と考えるのは本当はしてはならないことではないかと考えます。
 なるべく個人に帰責するところは少なく、個々の意志がかなり大きく揺れたとしてもうまくいくような集団としてのあり方を構築することができて、初めてそこでシステムが考えられたといえるのではないでしょうか?


 こうした見方をしてみると、たとえば大分の県教委の不正などという事態においても不心得者に十分なペナルティーを与えたり(不正)利得者の権利を剥奪することが関心の中心になるべきでもなく、再発防止に努めるということ、つまりシステムを考えることのほうが重要に思われます。
 また先の図書館話においても、館員が人権意識と職業意識のジレンマに陥らずその場その場の対応ができるようにシステムを整えることが急務なのであって、利用者の啓蒙がなにより必要という具合には見えません。


 あまり大きな話にしても何なのですが、たとえば平和教育・平和主義の活動においても、子供を啓蒙していって個々人が戦争嫌いになれば戦争は防げるはずだ、というように考えることは「期待しすぎ」なのではないかという印象も受けています。(過去記事:吉本隆明インタビュー「戦争について」参照)
 期待しすぎは何によらず感情のもつれの基です。個々人の思惑によらず、システムとしてそれが防げるように努めることを優先して、自分の意に沿わぬ誰かれを「糾弾」するようなぎすぎすした関係に紛れずに自分の希求する世界に近づくことも可能なのではないでしょうか?