納得するために

 結局、猫のハナコは帰ってきていませんし見つけられてもいません。
 昨日自分が行ったのは、里親さんたちと一緒に気持ちに整理をつけるためだったのかなと、そんなことが今朝うとうとしながら寝床の中で頭に浮かんできていました。
 自分でも探してみて、また原因だの事例だのいろいろなことを話し合ってみて、遺体も見つからない以上死んでないかもしれないし、スズメだのモグラだの捕まえるだけの生活力もあるし…などなどずっと話してきました。
 むしろ丈高い草を掻き分けてあちこち探しながらも、自分はあのとき決して死体を見つけたくはなかったんじゃないかという気がしたんです。そしてあそこでハナちゃんのことを、見つけた時のこと、初めてあちらに連れて来た時のこと、小さかった時のこと、この頃の様子などなどを話しながら、皆「いない」ということを何とか納得するために動いていたのかもしれないなあと。
 ほとんどグリーフ・ワーク(喪の仕事)をしていたようなものだったかもしれません。


 問題が自分たちの手で解決できないと思われたとき、大人たちは勝手に「納得してしまう」ものだなんて若いときはいらだっていたような記憶があります。そして今自分が歳を取ってくると、そうした「都合の良い」解決方法を自分もしているなと気付き、それもまたありだろうなんて考えてしまっています。


 問題の解決に直接に向かわないという点では、時にそうした解決法はごまかしじみて見えるかもしれません。でも「納得すること」をしないで生きていくのを当然のように思っていた自分はすでにいなくなっているようです。これは後退なのか、前進なのか、よくわからない気がしています。
 ハナちゃんは「神隠し」にあったみたい、という言葉も昨日一瞬でていました。そうか、こういう納得のためにその言葉があったのかと何か実感できたような…。