反日感情の再生産

【話の肖像画】「反日」「嫌韓」って何だ(1)早稲田大客員研究員・洪ヒョンさん産経新聞

  「反日」は単純な感情ではなく、イデオロギーによるものだと気付くべきです。もし「感情」なら、戦後60年以上もたっているのだから、薄れて整理されて当然でしょう。そうならないのは、これが感情ではない証拠です。

 いろいろ複雑な感じを受けるインタビュー記事です。北朝鮮の"陰謀"を匂わせるところなど突っ込みどころが多いような気もします。それに何より「“民族統一”の欺瞞を振りかざして…いる左派勢力」っていうのがつい先頃まで青瓦台にいたような気もしますが…。


 それはさておき、引用部分の「反日は単純な感情ではなく…もし感情なら…薄れて整理されて当然でしょう」という部分は納得がいかないところです。人にもよるのですが、韓国のニューカマーの人と実際に話をしてみて、彼らが戦後生まれであるのにもかかわらず(というか私よりも若かったりするのに)「まるで昨日のことのように、さらには自分が直接されたことでもあるかのように、日本の植民地の非道さをならす」ことがあるのに閉口した方はいらっしゃるのではないかと思います。
 感情は確実に再生産(もしくは無から生産)されています。


 思い出すのは過去記事で引いたアメリカ人の方のブログの一節です。

…Kevin examines the South Korean feeling of historical grievance.
 ケビンは韓国人が歴史的不平不満をどう感じているかを考察している。


 Herein lies the problem with modern-day Korea....too many open wounds and festering scabs.
 ここ(歴史への不満)に現代韓国の問題がある…(それは)あまりに多くの開いた傷口と膿んだかさぶたなのだ。


 Nothing ever heals because the people refuse to allow the healing process to take place.
 何ものもそれを癒しはしない。なぜなら(韓国の)人々は治療プロセスが始まるのを拒んでいるからだ。


 If the Japanese or other outside forces don't pick at the scabs,
 もし日本人や他の外部勢力が、(その)かさぶたをつつかないならば、


 then Koreans will do it themselves, just to make sure the blood still flows and the painful memories of victimization are seared into the consciousness of the next generation.
 その時は韓国人たちが自分でかさぶたをつつき壊すだろう、同じ血が流れていることを確認し、犠牲者としての痛みの記憶を次の世代の意識の中に焼き鏝(こて)で刻印するために。…
(過去記事:一人のアメリカ人が見た韓国


 そしてもう一つ、これは内田樹氏のブログ化される以前の日記からです。(とほほの日々 2000年6月

アメリカでは「幼児期の性的虐待」について、カウンセリングの過程で「抑圧された記憶」が蘇り、両親や兄弟や親族を「性的虐待」で告訴する事件が相次いでいる。


これについて『抑圧された記憶の神話』という書物は、そのようにして思い出された記憶のかなりの部分がカウンセラーの誘導によって外部注入された「偽装された記憶」ではないか、という疑念を投げかけている。人間の記憶力を操作することは想像する以上に簡単なことなのである、と「偽装記憶」の専門家である著者は書いている。

 

話の深刻さはずいぶん違うけれど、戦争体験のような激烈な経験をしたひとの中には、その後の人生において、「他者の経験」を、あるいは「伝聞した経験」を、あるいは「幻視した経験」を、自分の経験としてリアルに「生きてしまった」ひとだっていたはずである。


私はそのひとがなんらかの利己的な目的で、自己や他人を「欺いている」とは思わない。


他者の記憶をあるいは幻視された記憶を取り込むというのは、「記憶の共同化」という聖なる作業であるからだ。


この「記憶の共同化」をつうじて、はじめて共同体というものは立ち上がる、と私は考えている。実際は経験したことのないカタストロフや、危機や、痛みや、恥辱を、「わがもの」として引き受けるような感受性が私たちには備わっている。


それは誰かを「騙す」ための装置ではなく、私たちが共同的に生きるための、他者と「折り合って」生きるための、とても重要な能力なのである。


戦争責任の問題について、もう一度立ち戻るけれど、おのれの戦争責任や目撃証言を「カムアウト」したひとたちのなかに、事実ではないことを語っている人はおそらく少なくない。


しかし、事実ではない経験を事実として記憶してしまったことは十分に根拠のあることなのだ、と私は思う。そのようにして個体から個体へと「伝達」してゆかねばならないような共同的経験というものが存在するのだ。


戦争経験で外傷を負ったひとびとは、そのような「経験の伝え手」であると私は思う。


そこで語られることについて「真相はどうなのだ」「証拠を見せろ」などといちゃもんをつける人たちは「厳密性」とか「客観性」とかいう名のもとに、ほんとうに聞き取るべき情報を聞き逃しているのではないだろうか。


フロイトのヒステリー患者がそうであったように、そのような「外傷の物語」をリアルに生きてしまったひとにとっては現に「外傷」は激しく痛むのである。ことの「真相」の究明は、その外傷を癒すこととは別の水準の問題である。


真相の究明をまってはじめて外傷経験の癒しが始まる、というふうに私は考えない。


私は歴史的事実の究明という「過去指向」の作業とは別に、信の回復という「未来指向」の作業があるべきだと思う。

 (2000年6月20日付の日記より)

 ここにある「記憶の共同化」というもので、あるいは学校教育で、あるいは社会的な言説として、被害者感情としての反日感情は今なお韓国で再生産されているように私には思えます。
 それにむやみに縛られる人と、そうでもない人は自ずといるでしょうが、『親日派のための弁明』を書いた金完燮(キム・ワンソプ)氏がその後どう扱われたかを見るだけで、その社会的縛りがいかほどのものか想像できると思いますね。