そこにあるのは一般的な「差別」なのか?

 増田の記事 →■在日韓国人の同級生が自殺した
 これが実際にあったこととして思ったことを書きます。
 一読して、これを書いた増田の人は少しいやらしいんじゃないかと感じてしまいました。書かれた内容も中途半端で、はっきりしたことは何もわからないんじゃないかとも。


 Yという人が在日韓国人であることを周囲に話して

一週間ほどたつと、みんなあからさまにYを避けるようになっていた。


Yは、一人になっていた。話しかけようとしてもみんなが無視する。


1年たってもその状態は続いた。


Yは、それでも学校に来ていた。真面目に授業受けていた。

 というように書かれているのですが、この「みんな」の中に書いた増田が入っているんでしょう? 一度だけしか話したことがないとあるのですから、最初に会った時以降、増田はYさんに話しかけていないはず。
 Yさんが在日であるという理由で忌避されたのかどうかはわかりません。でもこの増田は一度話して「少なくとも悪い奴じゃないことはわかった」と感じているのですから、どうして孤立しかけているような(あるいは皆に無視されてつらい状況にいる感じの)このYさんに手を差し伸べなかったんでしょうか?


 後悔するぐらいだったらそこで自分が動くべきだったと思いますし、まして後で自死したとなればそこのところに痛みを感じて然るべきではないかと。
 そして誰にしろ人の死を軽く見て笑っているような人間には私もいやな気分を抱きますが、それにしてもこの増田のような立場で

Yが自殺したというニュースは俺にはかなりショックなことだった。


でもこいつらは何も思ってない。むしろ笑っている。おもしろがってる。本当に怖かった。


少なくとも、絶対に笑って話すようなことではなかったはずだ。


俺は本当にあいつらが分からないし、許せない。

 というように一方的に他人を批判できるものでしょうか?


 ここまで読んで、この増田は「何もできなかった自分の罪悪感を、他者を批難することでごまかしている」か、もしくは「一般的な差別という話に落とし込んで、情けない自分の行為(不作為)の意味を薄めている」ようにしか思えませんでした。


 ここにあるのは一人の若者の自死の話なのですが、それが本当に「差別」を理由とした話であるかどうかこれだけではわからないはずです。この増田の人はそれがわかるだけYさんに関わろうとしなかったのですし、これを一般的な差別の問題として提示するだけの情報があるとは思えません。
 むしろこれを差別があって人が死んだんだという話にまとめてしまうことは、しかも自分はその差別には荷担していなかったという風にそれを語ることは、何よりこの増田の人の自分自身に対するごまかしでしょう。


 なぜ自分も彼に話しかけないでしまったのか。
 差別やいじめの構造があるとしたら、そこを見据えないといけないと感じます。それを怠って「許せない」と他人を批判するだけなら、それはあまりにも軽いです。早晩この増田の人の頭には「差別で知り合いが死んだんだ」という「お話」が残るだけになってしまうでしょう。


 もしこのYさんが在日韓国人でなかったとしたらこの増田はどう事態を解釈できたでしょう。ただ「暗い感じ」で学科で孤立した一人の人が自死したというケースならば。
 その時でも「義憤」みたいなものを出して、その死を笑っているような人間を批判できたでしょうか?