宗教的教育

 うちの母は中学までカソリックの学校で、家は曹洞宗の檀家なのであまり関係ないはずなのですがさすがに「三つ子の魂百まで」、私が小さいときはよく「叩けよさらば開かれん」などと聖句をちりばめたお説教とかお小言を食らっておりました。おかげでこちらまで結構憶えてしまう始末。
 これに比べれば菩提寺の方の(明確な)仏教教育などほとんどないに等しく、小学校低学年の頃に仏教マンガ『総持寺の蛍山さま』をもらって読んだぐらいしか記憶にありません。
 何より一番じわじわ影響されたのは、たとえばおばあちゃんが毎朝仏壇に水をあげて拝む姿とか、お盆や法事の時の雰囲気や儀礼の繰り返し。うちの実家のあたりでは「普陀洛補陀落)をあげる」と称して、亡くなった人が四十九日を迎えるまで毎晩のように西国三十三カ所の巡礼歌を唱和する儀礼がありましたが、この所為で大体全部憶えてしまってます。
 自分では宗教系の学校に通ったことはないので、それがどんなものなのかちょっと興味はあれどもあまり知る機会はなく、後年いとこがサレジオに行っていたので聞いてみたところ、「別に」とか「ふつー」とかしか答えてくれませんでしたので、あまり頭の良くない感じを受けたものでした(まあ思春期の男子なんてそんなものでしょうが)。


 さて先日、宗教的情操教育を考えるパネルをたまたま聞く機会がありまして*1、そこでいろいろ聞けたことがありましたのでちょっと書き記しておきます。
 宗教教育については分野がおおよそ三大別されて考えられてきたと言います。その三つとは「知識・情操・宗派」です。このうち「宗派教育」や「宗教的知識教育」に関しては、もちろん公教育といったものの「公共性」とかなりバッティングする面を持つと考えられましたので、一部宗派の学校での教育に限定されるところでもありました。
 それゆえに日本における宗教教育的内容というものは、今まで常に「宗教的情操教育」というもののあり方を巡ってのものだったということでした。
 ところが宗教的実践を離れての宗教的情操教育とはどういうものであり得るのか、これはちょっと考えただけでその困難さを容易に想像できる類の難題です。しかし他方、宗教的情操教育の必要性を考える教育関係者は日本のみならず途絶えず存在したわけでもありまして、そういう葛藤の結果がたとえば教育基本法における宗教教育についての記述にも現れているのでした。

改正後の教育基本法(平成18年法律第120号)
(宗教教育)
第十五条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

 なんともアンビバレントな書き方ではないでしょうか。
 さてそういう困難に直面して、「宗教的情操」というものはいつしか哲学的な言葉として語られるようになっていました。そこでは「絶対者」や「無限(永遠)なるもの」などという(特定宗教と結びつきそうな)言葉は避けられて、

 すべての宗教的情操は生命の根源に対する畏敬の念に由来する

 といった形での言及です。パネルでは、この内容が改正教育基本法の第二条(教育の目的)のあたりに見られるという指摘もありました。

改正後の教育基本法
(教育の目的)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
 (下線は引用者)


 そして、ここに出てきた「すべての宗教的情操は生命の根源に対する畏敬の念に由来する」といった表現は、実は昭和41年(1966)に出された中教審答申(後期中等教育の拡充整備について)における『期待される人間像』での文言に由来するという指摘もありました。


5 畏(い)敬の念をもつこと
以上に述べてきたさまざまなことに対し,その根底に人間として重要な一つのことがある。それは生命の根源に対して畏敬の念をもつことである。人類愛とか人間愛とかいわれるものもそれに基づくのである。
すべての宗教的情操は,生命の根源に対する畏敬の念に由来する。われわれはみずから自己の生命をうんだのではない。われわれの生命の根源には父母の生命があり,民族の生命があり,人類の生命がある。ここにいう生命とは,もとより単に肉体的な生命だけをさすのではない。われわれには精神的な生命がある。このような生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教的情操であり,人間の尊厳と愛もそれに基づき,深い感謝の念もそこからわき,真の幸福もそれに基づく。
しかもそのことは,われわれに天地を通じて一貫する道があることを自覚させ,われわれに人間としての使命を悟らせる。その使命により,われわれは真に自主独立の気魄(はく)をもつことができるのである。

 またもう一段遡ると、この文言は高坂正顕氏の言葉からきたものではないかという指摘も。


 そしてパネルでは、この「生命の根源に対する畏敬の念」は理性の立場から諸宗教に通ずる普遍的な概念として立てられたものであり、特定の宗教の言葉で語ることの許されない状況のなかで語る語り方として我々に提案されたものと理解すべきであろう…云々と話が続き、これからの宗教的情操教育はどうあるべきか、特定の宗教の立場に立つことなく諸宗教の知識を材料として生きることの意味を考える態度と技法をどう考えていくか、「宗教」という言葉を避けた道徳教育における類似の教育はどうなっているか、あるいは宗教教育の三分法や宗教的情操教育というものを一度離れてはどうか…などなどのパネラーの発表が続いたのでした。


 私の感想としては、やはり具体的な宗教的実践を全く無視した形での宗教的情操教育は無理があるんじゃないかというところが一番強く、むしろ宗教的知識教育に踏み込んで、たとえばその中で複数の宗教的実践に触れることも許容した上で宗教教育を構築していく形が良いんじゃないかと思えました。
 また、「生命の根源に対する畏敬の念」という言葉で思い起こしたのが「SOL(Sanctity of Life)からQOL(Quality of Life)への移行」といった生命倫理での思想的変容で(→過去記事)、単に「生の尊厳」というものを言い続けるだけでいいのだろうかといった疑念が頭を離れませんでした。


 子供への教育は、その人格の形成にあたって非常に重要なものです。しかしながら柔軟で可塑性に富んだ子供の思考は、単にいくつかの宗教を押しつけただけで「洗脳」になるといった脆弱なものでもないと私は考えます。
 NHKの「趣味悠々」で『はじめての西国三十三所巡り』が始まっています。これをたまたま見て、何とも小さいときの思い出がいろいろ湧いてきて、宗教的情操教育というあたりがどうも気になりましたので記憶があるうちにと書き留めてみました。

*1:日本学術会議と某学会の共催でした。