ビジネスとして見ることも可能でしょうが

 今日は島田裕巳新宗教ビジネス』講談社、を読み始めました。「新宗教はどんなテクニックで金を集めるのか?」という惹句がついています。そこにお金が集まる以上、ビジネスとしてそれを捉えることもできますし、ビジネス・モデルのパターン(この本ではたとえば創価学会は「ブック・クラブ型」、阿含宗は「スーパー・コンビニ型」などといろいろ分類して説明)を考えるのにも興味は湧きます。
 ただ、タイトルに惹かれて買った自分がいうのも何ですが、いきなり最初からこれを読んで楽しむという方向もどうだろうと思わないでもありません。新宗教、そして宗教全般に対してのバイアス、といいますかお金の側面だけでの理解が進んでしまっても、それだけで新宗教が言い尽くせるわけではないと思うからです。特に一般の信者さんの側(の理解)が、これだけでは抜け落ちてしまうことでしょう。
 妙な宗教ビジネスにお金を巻き上げられる人が少なくなるのは良いのですが、宗教はそれだけと思ってしまうのもまた問題が多かろうということを考えます。


 いきなり宗教的思弁に踏み込むというのも敷居が高すぎるでしょうし、こういう時には

 朝日選書329、安丸良夫出口なお朝日新聞社、1987

 あたりを勧めることにしています。これは名著です。
 なぜ出口なおはお筆先を書くことになったのか。なぜ彼女を信じ従う人たちが現れたのか。出口王仁三郎は何をした人か。大本教はどういう宗教だったのか…
 とても分かり易く書かれていますし、信者の人がこの新宗教に走る必然性があったのだということが誰にでも理解されると思います。
 もちろんこの本にさえ「宗教のことを宗教以外で説明している」という批判は向けられています。内在的理解ではなく社会学的・思想史的理解に過ぎるとか。
 でもそうした声すら気にならなくなるぐらい、たぶんこの本は過去のある側面を迫真的に描写していると感じられるはずですし、神や仏といったものをたいして信じられない人にも「信仰」の姿を見せてくれるレベルに至っているんじゃないかと私には思えるのです。