罪無き者ほど冷酷に

ヨハネ福音書
第八章
エス、オリブ山にゆき給ふ。 夜明ごろ、また宮に入りしに、民みな御許に來りたれば、坐して教へ給ふ。 ここに學者・パリサイ人ら、姦淫のとき捕へられたる女を連れきたり、眞中に立ててイエスに言ふ、 『師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。 モーセは律法に、斯かる者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか』 かく云へるは、イエスを試みて、訴ふる種を得んとしてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ。 かれら問ひて止まざれば、イエス身を起して『なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て』と言ひ、 また身を屈めて地に物書き給ふ。

 文語のかをりが好きなのでこの引用で。
 この有名な新約のエピソードでは「罪なき者」がすべての罪が無い者となっていて、宗教的含意はともかく、さすがにそれでは人は誰も裁けないという結論に至ってしまうだろうと考えられます。ですから実践的にはこの域に達して日頃の行動を行う人はかなり少ないでしょう。ちょっとしたことで他人に腹を立てたり、悪い奴は罰を受けるべきと怒ってみたり…
 

 普通は、人の罪を考える時にたいてい「どういう種類の罪か」が考えられているのだと思います。で、自分にはあてはまりそうのない罪、自分は「罪無き者」になれる類の罪というものがあると皆捉えているのではないでしょうか。そしてそういう罪に対しては人は手厳しくなるものです。
 逆に言えば、自分も犯しそうな罪(あるいはちょっと犯したことのあったりする罪)には、その時の心情が案外わかってしまって同情的にもなれるということなのかもしれません。いずれ自分は無垢であり得るような他人の罪に対しては、結構遠慮無く人は冷酷になれるという傾向があるように感じます。
 上の例で言うならば、自分は姦淫(不倫)しないと思っている人(ただ単に機会がなかっただけかもしれないんですが)、そういう人だとためらいなく「女」に石を投げるというようなことをしているのではないか、と思うんです。


迷惑餌やり禁止条例案 猫世話する人へ 嫌がらせ相次ぐ東京新聞

 東京都荒川区が検討している、動物に餌を与え周辺住民に迷惑をかける行為を罰則付きで禁止する条例案をめぐり、区内で猫の世話をする住民に対する嫌がらせが相次いでいることが二十五日、分かった。

 住民によると、区が条例案を発表した九月十九日の翌日、同区南千住で地域で猫を世話するグループの三人が、近くの男性から「罰金刑ができたから、写真を撮って警察に通報してやる」と脅されたり追いかけられたりしたという。


 別のお年寄りの女性は十月上旬、同区南千住の公園で猫に餌を与えていたところ、ホームレス風の男性に水をかけられたという。数日前には、同区町屋の女性が猫に餌をやっていたところ、小学生数人から「餌をあげてはいけないんだよ」ととがめられたという。

 ここでたしなめたり通報すると言っている人たち、また追いかけたり嫌がらせ的行為をしている人たちでさえ、もしかしたら自分たちは正義を行っていると考えているのかもしれません。
 こうした人たちは、野良猫・野犬・小鳥に餌をやったり保護したりということを自分ではやらないだろうと考えている人で、単純に動物に中途半端に餌をやることは駄目なことだと思っている人…という想像は案外当たっているような気がします。
 自分ではそんなことはやらないから(自分は無垢であり得るので)、その違反者たちがただの考え無しに見えてしまう。そうした人の葛藤がわからない。中には引き取って責を果たそうという人がでてくることが想像できない。地域猫という概念は知らないしもし知っていても無駄だと思っている…。
 奴らは自分勝手な馬鹿者だ。
 正義は責める我にあり。


 そういうことなんじゃないでしょうか。悪意というか、あまりそういうものはなくて。
 そして、案外この「罪無き人たち」(言い換えれば想像が届かない人たち)という者に案外私たちは頻繁になることがあって、役人が汚職したと言えば「Boooo」、有名人が不倫したといえば「Boooo」、政治家があれこれしたといえば「Boooo」、先生がエッチしたといえば「Boooo」、金持ちがずるしたといっても「Boooo」、世間を騒がしたと言っても「Boooo」
 手厳しく(だって相手は金持ちなんだから)、思い遣りもなく(だって相手は悪いことをした奴らなんだから)、遠慮無く(だって相手はエライさんなんだから)罵声を浴びせているのかもしれませんね。


 罪無き者ほど冷酷になれるんです。きっと。