価値はどこに生まれるのか

 自分自身の価値は、自分には定められない - 狐の王国
 面白い提議。記事の主張にはポジティブに同意したいです。
 ただ「自分自身の価値(たとえばサイトの価値)は、自分には定められない」という表現はちょっと微妙で、もしかしたらサイトを閉じようという人に訴えかけないかもしれないとも思えました。


 かつて内田樹氏が何度か「欲望は他者の欲望によって作られる」というようなことをおっしゃってました、たしかヘーゲルの『精神現象学』を引いての話だったはずです。そういうややこしいものを引かなくても、記憶にある幼い頃から、誰かが「欲しい」という態度を示したもの(対象)がどうしても自分にも欲しくなったりした感情の動きは誰も憶えていると思います。これはかなり直感に訴えかけるところがある話でしょう。
 誰かが欲するということが他の人に欲求を生み出し、すなわちそこで価値が生じてくるというのは、『トム・ソーヤの冒険』でトムが「塀のペンキ塗り」に熱中する態度を(もったいぶって)見せたおかげで、いつの間にか「罰」が「名誉ある仕事」になってしまってトムに財!が集まったというあのエピソードが示してくれるように確かに存在することだと思います。
 ただしあそこでトムがしたことは、(擬似的でも)主体的な価値の創造ではなかったでしょうか? 価値を作ろうと思って生み出した、という点においてあれは能動的な行為でした。また、自分が一廉の(あるいは立派な、心の優しい、持てる、経験のある…)人物であることを見せようとして見せびらかし(演出)をしてしまうということも凡俗(含自分)には避けられないことと思います。大概は底が割れて「負の価値」を持ってしまったりするのですが、たまに自己演出がうまくいって「偉く」見られている人など世の中にそれなりにいるものとも見えます。
 自分で自分の価値を生み出そうとすることはできるのだと思います。ただしそれを最終的に決定する主体に自分はなり得ない、そういうことでしょう。
 定められないから放棄すべきということではなくて、結局は他の人次第だという諦観を持つべきということならば、なおしっくりきます。自分の価値を認めて欲しいと能動的に仕掛けること自体には意味があるということです。そして記事の後半で例を出して語られるように、その「価値」は関係性の中で生み出されると表現するのが適当でしょう。
 関係性は自分だけで閉じることはないため、自分だけの意志でそれを左右することは最終的にできない(価値を自分だけで決めつけることは不可能)というのがおっしゃることの根っこだと私は理解しました。


 さて、それでサイトを閉じようとする人の話に戻りますが、その人が「自分のサイトには大した価値がないんだから…」と思って閉鎖したり削除したりするのであれば、確かにこういう話をするのは有効でしょう。
 ただ、自分の(サイトの)価値を卑小に考えて閉鎖するとか削除する人ばかりでもないと私には思えます。むしろ、そういう「関係性を解消したい」と考えて消去する(リセットボタンを押す)人のほうが多いんじゃないかという感じを持っています。
 価値については「いい価値」だけでなく「反価値」というものも考えられなければなりません。抛っておいて誰かが「いい価値」を認めてくれることが期待できるのと同じくらい、誰かがそこに「反価値」を見つけてdisってくるかもしれないのです。それがうざったいと思えるときもあるでしょう。
 また、誰かが自分と関わりのないところで自分(のサイト)を評価し、良いとか悪いとか判断すること(判断されること)自体に疲れる場合だってあると考えられます。しばらくサイトを続けて、そういう「評価されること自体」から抜けたいと思って消してしまう人も意外に多いんじゃないかとも感じます。


 そういう「関係性を絶ちたい欲求」に対しては、「関係性の中から生まれる価値」を説いても難しいのでは、と思えたのでちょっと書いてみました。(サイトを残してよ、という意見には全く同感なのですが…)