トロッコ問題について

 人間の倫理は非理性的か:「トロッコ問題」が示すパラドックス(WIRED VISION
 上記記事では二つの思考実験が紹介され、それに対する人々の反応が違うということをめぐって話がされています。まずは基本のトロッコ問題。

「トロッコ問題」(トロリー問題)
 5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。

 ここにおいては「5人の命を助けるために1人の犠牲も止む無し」、とする功利主義的な倫理を選択する人が多いのに対して、次の問題

「The fat man」(Judith Jarvis Thomsonが提案したトロッコ問題のバリエーション)
 あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。

 ここではその行為が良心に欠けると感じられて、功利主義的ではなく「カント主義」(ここでは義務論という意味でしょう)に従う人の方が多くなる、これは謎だ、というのが記事のメインの筋書きです。


 これを「5人を救うために他の1人を犠牲にする話」のちょっと違ったバリエーションと考えるから謎めくのでしょうが、私はこれは全く異なったシチュエーションになってしまっている(ミスリーディングな)バリエーションではないかと考えます。
 後者においては、「見知らぬ隣の人を橋から突き落としてトロッコを止める」という解の他に「自分が飛び降りてトロッコを止める」という解、そして「見知らぬ隣の人が自分を橋から突き落としてトロッコを止める」という解が実は暗黙のうちに設定されてしまっているのではないでしょうか? それがあるからこそ、「隣の人をトロッコを止める道具にする」行為が上のトロッコ問題よりも明確に忌避される行いとして感じられるというのが理に適った考え方のように思われます。


 後者のバリエーションを次のように変えてみたらどうでしょう。

 あなたは橋が見える丘の上でトロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。あなたの手元には橋を爆破する起爆装置がある。トロッコを止める方法は橋を爆破する方法しかない。しかし橋の上には見知らぬ人が一人残っている。あなたが橋を爆破すれば、その人は死んでしまうかもしれない…。

 おそらくこちらの設問にすれば、最初のトロッコ問題と大差ない判断結果が得られるものと思います。


 直接性(自分で手をくだすこと)をためらう部分も確かにありそうですが、私はそれよりも自分と等価な(立場の)他者を道具として使うことへの忌避感というものが強いと考えます。ある意味確かにそれはカント的なものに通じるわけですが。
 「The fat man」では、突き落とされる見知らぬ隣人は「他者」であると同時に「自分」でもあると感じられるのだと思います。この問題で隣の人が自分を突き落としてトロッコを止めるという選択肢がなぜ表面化してこないのか、私にはむしろそれが不思議です。
 トロッコを止めて5人を助けるための道具にされるのは、隣人であると同時に自分でもあり得るのです。後者の問題で、隣の人が自分を線路に投げ落としてもあなたは5人の命のために従容として死を受け入れますか?という問題を考えてみてもいいでしょう。
 この自己犠牲の問題において少なからぬ人が素直にYESと言えないからこそ、逆に、隣の人を投げ落としてそれが正義だと単純に考えることができない人の割合が多いのではないでしょうか?
 ここでためらう人は自分と等価な「他者」に敏感な人だと思われます。そしてこれこそが「社会的感情」の基礎になっているものではないかとちょっと考えるのですが…。