科学と似非科学と宗教

 大元のところとこちらは読ませていただきました。大元のchnpkさんのほうはちょっと整理がついていない印象を受けていて、何か自分も言いたいけどそれがまとまらない感じだったのですが、fizさんのエントリのほうを読んでもやもやっとしながらも少し考えがまとまってきたように思います。
 chnpkさんは「私が「わからん」のは、突き詰めると科学とニセ科学と宗教の違いだ。3つとも同じに見える。要は人間が信じるか信じないかというだけでしょという点において」というように三者を並列におかれましたが、これに対してfizさんは

 信じるか信じないかの問題であるという所に軸はあるのだけど、科学とニセ科学に宗教を持ってくるというのは、宗教がニセであるとした前提に立たなければいけない。恐らく chnpk さんは信仰心が無いから(勝手な想像で申し訳ないです…)こういう理屈になるんだろうけど、科学とニセ科学があるように、宗教とニセ宗教があるのならニセ宗教はダメなんだと思う。

 というように書かれて、そもそも三者を並べたところの問題を指摘されていました。


 ここからヒントを受けた感じで考えたのですが、似非科学が問題とされるのはそれが「手段」とされるときじゃないかと思ったのです。これは金儲けの手段であるとか、思想を広げるための手段であるとかいろいろ目的は考えられますが、とにかく科学という「手段」への信頼・権威を利用して、科学じゃない方法を手段として何かを目指すというところが批判されるということなのではないかと。
 そしてむしろ似非科学擬似科学が「目的」となる場合、かつての「心霊学」であるとか「なんでもプラズマで説明がつく研究」であるとか、そういったものは放っておいてもいい類のものなんじゃないかと思えたのです。愚行権を持ち出して滔々と述べることはしませんが、もしそれが科学ならざるものであるならばいずれ行き詰って消えていくだろうと、「科学」の名の下に精査されるのだったらそれが当然だろうということです。(そしてそれが単に発想の大転換でトンデモ扱いされただけで、万万が一証明されるものであったならば、いずれそれも白黒がつくことのはず…)


 宗教についても、それが「手段」として他の目的のために使われる場合は問題であると考えたほうがよいのではと思います。これまた金儲けの手段とされるようなものが似非宗教と非難されるのでしょうが、実際には真の宗教と似非宗教を形態から区別することはかなり難しいのです。最初は反社会的であったものが年を経て変わるとか、怪しげな教義であっても信心としては大宗教に対するものと違うとはいえないとか、実際宗教学の辞典を見て延々と「宗教」の項目を見たからといって宗教とは何か(そしてエセ宗教とは何か)がそれほどクリアにできるものでもありません。


 そして宗教が「目的」である場合、それは科学とバッティングするものとはいえないのではないかと私は考えます。古い引用ですが、下のホワイトヘッドの意見は傾聴の価値があると思うのです。

 ある意味において科学と宗教との対立はもともと些少なことがらであるのに、不当にも大げさに言われてきた。

 われわれは出来事の非常に異なった側面がそれぞれ科学および宗教で扱われることを忘れてはならない。科学は自然現象を規制すると思われる一般的諸条件に関わりを持ち、これに対し宗教は道徳的・美的価値の観想に没頭する。

 それぞれ互いに、一方の見るものを他方が見落としている。
(Alfred North Whitehead, Science and the Modern World, Cambridge, 1929, p.229)


 「信じるもの」として科学と似非科学と宗教が同レベルに並立している(そしてそれは互いに"信者"をめぐって争っている)と考える構図がおかしい、ということについて自分は言いたかったのでした。