あるがん患者の非合理な判断

 月曜日のNHKスペシャル「さまよえる がん患者」の中に、69歳のTさんという方が患者さんの一例として登場していました。
 Tさんは四年前に患った食道がんが肝臓にも転移したと判明。しかし身体の痛みもなく、奥さんと二人暮らしで自宅で療養中(といいますか普通の暮らしをされているよう)でした。
 Tさんは自宅に一番近い拠点病院で9ヶ月にわたり抗がん剤治療を受けたのですが、去年の暮れ、がんが大きくなっているとの診断があり、医師から「もう効く抗がん剤がない」として治療の中止を告げられます。

 ナレーション
 効果が無いのに高度な治療を続けるのは、医療費の無駄につながるというのが国の考え方です。

 ここで思ったのですが、国がどうこう言っているとかではなくて「効果が無いのに高度な治療を続けるのは医療費の無駄」という部分だけを取り出せば科学(医学)的に(というよりむしろ常識的に?)正しいんですよ。もちろん政治的にはどうかと問われる部分かもしれないのですが、合理的な判断だろうと考えられます。
 より厳密に言えば「現時点での医学で了解される限りにおいて」とか「その病院で治療として考えられる手段において」などの留保は入ってくるでしょうが、「効果が無いと判断された治療をし続ける」という非合理は例の疑似科学問題とも重なって考えられる部分だと受け取られました。端的にそこでの治療継続は合理性がないということです。
 でも「感情的に」Tさんはその合理性を受け入れられません。痛みもなく体力もあると感じる自分に「手のくだしようがない」という判断が下されるのを信じられないという感情です。これも自分の身になってみると、そう考えてしまうということは理解できないと言い切れません。


 Tさんは高度な治療が受けられる別の拠点病院を探します。自分で集めた情報をもとに県外の病院にまで足を伸ばされたそうです。そして二ヶ月後、ようやく治療をしてくれるところを見つけます。でも結局その拠点病院でも「抗がん剤の効果がみられない」ということで治療は中止され、Tさんにはホスピスが勧められたのでした。

 治療の方法が無くなると言われるのが、一番ぼくらにとってショックでしょ。で、要するにまだこんだけ体力があるよと。まだこんだけ元気があるのに、もうあんたの治療法は、その、これ以上のものがないんですと、こうなるんですよね。(Tさん)

 Tさんにとってはホスピスという方向は受け入れられるものでなく、さらに探し回って三つ目の自分を受け入れてくれる拠点病院を見つけます。この病院(兵庫医科大学病院)へは週一回自分で車を走らせて一時間半、決して楽な通院ではないのですが、こちらの医師がTさんにはまだ薬が効く余地があると考えてくれたので他に選ぶ道はありません。

 大喜びは困るんですけども、まあねぇ、抗がん剤が効かないと急激に大きくなっちゃいますよね。それがまあある程度抑えられたという意味で、(抗がん剤投与の)意義はあったんじゃないかと思います。(主治医)

 というように、今度は検査の結果を見て治療中止という判断は下されませんでした。とりあえずがんが大きくなるのは抑えられている(ようだ)というぐらいの見立てなのですが、Tさんにとっては地獄に仏というものだったでしょう。


 マクロな視点から見れば、Tさんの行為はほとんど医療リソースの無駄遣いに近いものだと思います。ただTさん本人の視点で見れば、かけがえのない自分の命のために尽くせる手は尽くしたい…という合理性を越えた判断になるのはまた致し方ないことなのではないかなとも感じました。

 ナレーション
 継続的に治療を受けているがん患者は140万人。
 その一人一人が納得できる医療を求めています…

 この「納得できる」というのが、「合理性はともかくすがれるものは何でもやって希望をつなぎたい」というものなのでしたら、それこそ疑似科学的なものだろうがまじない、拝み屋さんの類だろうが患者さんに与えられるべき(>奪ってはいけない)ということになってしまうんじゃないだろうかと、そんなことを考えて番組を見ていました…。