窮鳥入懐

 日比谷の「年越し派遣村」の一件、5日の仕事始めを迎えても何とか手が講じられるという話になっているようで取りあえず良かったと思います。越年の炊き出しは従来も各所であったものですが、このケースはメディアミックスで盛り上げて(仕込みはあったでしょう)、厚労省あたりに「窮鳥」として認めさせたのが戦術的に功を奏したということだと思います。
 システムとしてどうこうとか手続きはどうだとか言う前に、ほとんど人格として対処せざるを得ないように懐に飛び込んだのが結果を導く道だったんだなあと感じました。自分が、ではなく相手が「人格」として動かざるを得ないような状況を作ったということです。自分の人格・人権の主張だけでは、それが如何にまっとうなものであれこうした効果は持ち得なかったのではないかと思えます。
 まず相手を人間として遇し対峙することで自らを人間として扱うようにさせる。これは権利を声高に主張するだけの方法よりも古式ゆかしい良い戦術ではないかと。

 窮鳥入懐 仁人所憫 況死士帰我 当棄之乎*1
 窮鳥の懐に入るは、仁人の憫れむところ。況んや死士 我に帰さば、まさに之を棄つるべけんや。
 (顔氏家訓より)

*1:ネットでは「窮鳥入懐 仁人所憫 況死士帰我 棄之乎」というテキストが流通していますが、これは「当」の旧字体」がどこかで「常」と誤記されて広まったものでしょう。ここに「常」なんていう漢字があっても読み下しはできません。この誤記を引いたどの方も後半部を書き下している例はありませんでした。